近年に入って民主主義の退潮が取りざたされるようになった。最もそれを表しているのはアメリカ、トランプ氏の選挙結果の否定が民主主義を大きく揺るがした。これにより、アメリカ社会は二極化へと分断された。しかし、行き過ぎた民主主義否定に民主主義国家で育った国民は疑問を持ち、再び統合、民主主義国家として修復を始めている。

一方で、世界はリベラルな国際秩序についての重要性について再認識される出来事が起こった。イギリスのEU脱退以降の欧州は協調関係は綻びを見せていたが、ロシアのウクライナ進行により、欧州の結束は再び強まった。また、ロシアと中国の権威主義国家同士の協力関係はロシアのウクライナ進行以降は薄れてきている。

しかし、このような民主主義とリベラルな国際秩序にも懸念点はある。

個々人またはマイノリティー側の意見は反映されにくいことだ。民主主義国家で育てられた普遍的な価値観はそう簡単には変えられない。結局はマジョリティー側の意見が優先される。しかし、このようなことを踏まえてもなお、異なる価値観の間を取り持ち安定させるのに最も有効なのはリベラル民主主義おいてほかにない。

しかし、このような民主主義が世界には必要なのかと私は疑問に思う。

そもそも民主主義においてマジョリティー側が保障されるのに疑問を感じ得ない、マジョリティー側が作った秩序を守ることが誰にとっていいのか。そもそも民主主義とは何か。

哲学者の西谷修さんは次のように述べている。「『民主主義』対『権威主義』は、民主主義を自称する側が『敵』を名指すための図式です。西洋が普遍化した世界秩序を維持するための新手のイデオロギーです。秩序に服する国々が民主主義、従わない国々は権威主義と規定され非難され、その国の人びとを解放するという話になります(中略)民主主義とは何でしょうか。地域に生きる人々のオートノミーが保障されることだと私は考えます。それは西洋の専売特許ではない。日本の一揆もそうでしょう。しかし、西洋は民主主義を個人の自由に基づく近代の社会システムと結びつけて概念化しました。この自由は、ジョン・ロックによれば私的で排他的な所有に基づいています。欲望は解放され、世界の端にまで所有を広げていきました。(中略) 西洋世界は自分たちが普遍的基準だとの思い込みから抜けられず、いまだに非西洋を追い詰めようとします。権威主義という用語が今またその道具の一つになっているようです。」。

つまりは、西洋諸国が個人の私的な排他的なものによる広がりとそれに従わないものを敵とみなし、自らを世界の秩序を守る普遍の番人であるかのように存在として位置している。

今後、我が国日本がこのような民主主義をどのように捉えるかは個々人だが、私は少なくとも、民主主義に染まり、自らを普遍の秩序としてマイノリティーを追い詰め、根絶することは避けたい。また、リベラルな国際秩序を保ち、それを永遠のものにすることはさせたいものだ。

参考文献

民主主義と権威主義:東京新聞 TOKYO Web (tokyo-np.co.jp)