3月31日生まれ セルゲイ・ディアギレフ
1872年の今日3月31日は、バレエ・リュスの創設者として名高いロシアの興行師、セルゲイ・ディアギレフが生まれた日です。
ディアギレフは、ロシアの人なので、「ユリウス暦」で3月19日生まれとなっている文献もあるかもしれません。
《ユリウス暦とグレゴリオ暦》
我々が現在使っている暦は「グレゴリオ暦」です。
毎年1月1日に新年を祝う太陽暦で、4年に1度閏年が来ます。
この暦は「ユリウス暦」をもとに、1582年(日本で本能寺の変により織田信長が討たれた年)にローマ教皇グレゴリウス13世によって導入された暦です。
それまで、ヨーロッパのキリスト教社会では「ユリウス暦」が使われていました。
「ユリウス暦」は、ユリウス・カエサルが施行したことにより「ユリウス暦」と呼ばれます。
それまでローマでは、地上から見た月の動きと太陽の位置に基づく太陽太陰暦「ローマ暦」が使用されていましたが、季節が大幅にずれてしまっていました。そこでユリウス・カエサルは新しい暦を定める必要を感じ「太陽暦」を採用したのが「ユリウス暦」です。
「ユリウス暦」は1600年以上使用されましたが、時が経つにつれ、少しずつずれが生じて来ました。10日以上ずれが生じた時、これを修正するため「グレゴリオ暦」が導入されたのです。
「ユリウス暦」では、1年を365.25日と定義しており、4年に1度1日を追加することで調整します。
「グレゴリオ暦」では、1年を365.2422と定義しています。基本「ユリウス暦」同様、4年に1度1日を追加しますが、その年が100で割り切れるが、400では割り切れない場合、閏年を省略してその年は1日追加しないというシステムです。
これにより、精度が格段に改良されました。
「ユリウス暦」では1年に11分ずれていましたが、
「グレゴリオ暦」は1年にわずか26秒のずれになります。
閏年をカウントしない分、前に進むので、今は「ユリウス暦」より13日間ずれが生じています。
「グレゴリオ暦」が導入されても、それに抵抗する人も多く有り、長い間二つの暦が使われてきました。
ロシアなどのギリシャ正教の国では、ながく「ユリウス暦」が使われてきました。「グレゴリオ暦」が使われるようになったのは、1917年の革命以降、1918年に導入されています。なので、ディアギレフが生まれた時は「ユリウス暦」だったため3月19日となっているのです。
四柱推命ではグレゴリオ暦で命式を計算しますので、1872年3月31日生まれとして命式を出します。
セルゲイ・ディアギレフ 1872年3月31日生まれ
干支 蔵干 通変星 12運
年 壬申 庚 正官 正財 沐浴 生年中殺
月 癸卯 乙 偏官 偏印 病
日 丁丑 己 食神 墓
「丁丑」の生まれの人です。
「丁丑」の象徴は、寒々とした冬の終わりの空に煌々と輝く月です。
「丁」の人は基本芸術家体質です。
「丁」の象徴である、ゆらめく灯火や、満ち欠けする月は、不安定さや繊細さ、情感の象徴でもあり、とても豊かな創造力や芸術的感性をもっています。
「丑」は、厳寒の寒さに耐えて芽吹く春を待つ忍耐強さがあり、十二運の「墓」には、拘りをもって興味のあることを研究する凝り性な体質をもっています。
季節と季節をつなぐ土用にあたる「丑」には、人と人とをつなぐコミュニケーション力も持ちあわせています。
「食神」は、子供のように無邪気に自分の欲望に忠実です。
楽天的で天真爛漫で明るい性格は人を魅了しますが、子供っぽい自己中心性ももっています。
セルゲイ・ディアギレフは、バレエ・リュスを創設し、多くのバレエダンサーや振付家を育成し、芸術の都パリでその名を轟かせた著名なバレエ興行師です。
同性愛者として有名で、天才ダンサー、ニジンスキーとの関係は映画など様々な作品に取り上げられています。
彼のパワハラ、セクハラは強烈だったようで、ニジンスキーを精神崩壊させた話は有名です。
ジャニー喜多川氏を彷彿とさせるような人物ですね。
元宝塚歌劇団の演出家、原田諒氏が、2011年に発表した宝塚歌劇・雪組公演『ニジンスキー -奇跡の舞神-』でも、ディアギレフとニジンスキーの関係が色濃く描かれています。
原田諒氏は、2022年に「週刊文春」で、演出助手に対するセクハラが報道されました。
その結果、原田氏は、異動ののち宝塚歌劇団を退団されました。
その後、2023年、『文藝春秋』6月号において手記を掲載し、演出助手との間のLINEのやりとりも掲載して、パワハラではない旨の反論をされました。そして事実問題として、宝塚歌劇団を退団したのではなく、「退団させられた」のだと主張され、歌劇団を相手取り、復職を求めて提訴されたのです。
実際私も、『文藝春秋』に彼が出したLINEのやりとりを見るまでは、原田氏が立場を利用してセクハラしていたのだと思っていました。
しかしあのやりとりを見ると演出助手側から過剰に阿っていたように感じました。おそらく推測ですが、演出助手の方は出世のために、相手が同性に対する性的嗜好をもっていることを知らず軽率に取り入りまくっていたのかも。
そして、原田氏の方が自分に気があるのかと勘違いされた。
男女間でもよくあることかもしれません。女性から親切にされると、その親切が過剰なものだと、自分のことを好きだから親切にしてくれているのかと勘違いするなんてことは。
原田氏にはセクハラする気は毛頭なかったので、それを理由に解雇されたのはどうしても納得いかなかったのかもしれません。
だから、自分のセクシュアリティを心ならずもカミングアウトする結果になることを承知の上で『文藝春秋』への寄稿や提訴に踏み切ったのでしょう。
宝塚を退団してからの原田氏は、パワハラとセクハラの烙印を押され、業界から仕事を干された状態だったので、まさに「演出家生命」を奪われた状態だったので・・・
演出家生命を奪われるということは彼にとって死にも等しいことだったのかもしれません。
世の中にはいろいろな報道がなされていて、書く側は、事実を書くにしても、自分の主張に都合の良い事実のみを書きます。
なので、我々読者は、報道のなかのバイアスを理解しながら、報道されたことを鵜呑みにしないようにしなければならないのではないでしょうか。