おはようございます。ブログをご覧くださいまして誠に有難うございます。

ブログ管理人の 高坂 美慧 です。

 

前回の続きで、いよいよ信玄さん誕生の頃について、

武田 とみさんとお話ししていきます。

 

美慧: とみさん、前回では大井夫人の元ご実家のような城が 

    落とされて身重だった夫人は要害山に避難することになった、

    というところでしたね。

    

とみ: そう。武田家にものすごい緊張が走ったことでしょう。

 

美慧: そうですね。

    そして迎える飯田原の合戦。

 

とみ: これは現在の甲府市飯田のあたり。

    敵将 今川氏家臣の福島正成側の軍勢は 15,000

    武田側の軍勢は              2,000

            で、荒川の飯田原で10月16日に激突したの。

 

美慧: うわ〜、甲府市飯田といえば、

    もう甲府駅からも近く。相当攻め込まれたんですね。

    また数の上でも相当不利にも感じますが…。

 

とみ: そうね。

    しかし、信虎公の知略を駆使した作戦が功を奏して

    勝利を収めたの。

    まだしかし敵方は甲斐から完全撤退はしておらず

    戦いは終わっていない状況。

    この最中の11月3日に、のちに「甲斐の虎」と

    全国にその名を馳せる戦国武将 

    武田信玄さんが要害山にて無事に誕生した、

    というわけなの。

    

美慧: 信虎公の命懸けの戦いの一方で、

    大井夫人も命懸けの出産をして

    新しい信玄さんの命が誕生した…ということですね。

 

とみ: そうね。

    「甲陽軍鑑」においては戦いに勝ったため、

    赤ちゃんに「勝千代」という名前を与えた、と書かれているの。

    武田家に男の子が無事誕生した、という知らせは

    当時の武田軍全体の士気を高めることになった。

    そして、信玄さんが誕生した同じ月に再び上条河原の戦いで激突。

    信虎公が奇襲を行ない、敵将の福島正成公は討死。

    年明けに、敵方が全撤退した。これは同時に

    信虎公による甲斐国の統一が完成したことを

    国内外に示すものにもなった。

 

美慧: びっくりびっくりびっくり

    ………はぁ……、

    信玄さんの出生前後の一年は

    まさに武田家にとって大激動の時期だったんですね…。

    武田家絶体絶命のような危機から、

    一転し、

    甲斐国統一を果たすっていう…。

    大ピンチと大成功…。

    

とみ: 大吉兆と大凶が背中合わせのようなね。

    こんなタイミングで生まれてくる信玄さんが

    戦いを常とし、大きく躍進していくというのは

    実に宿命だったのかもしれないわね…。

 

積翠寺 甲府市上積翠寺町984

御本尊 釈迦如来

武田信玄公は要害城で誕生されたとの記録があり、

その産湯に積翠寺の井戸水が使われたと伝わっています。

武田信玄誕生の寺として、境内には武田不動堂があり、

不動尊と武田信玄公が祀られています。