こんにちは。ブログ管理人の高坂 美慧です。
本日は、以前、お話が出ました一条小山にかつてありました
一蓮寺について 武田 とみさんとお話します。
美慧:とみさん、一条小山のお話は、始まったばかりのブログの中でも、
よくご覧いただいている記事になりました。
とみ:たくさんご覧いただいてありがたいわね。
それにしても…そう?この記事が?
時代と共にかなり変わった地だったから、皆さんの
関心も高かったのかしら? 美慧:そうかもしれませんね。
私がこれを知った時に感じたのは、パワースポットか?!ということと、
じゃあ、移転した後の一蓮寺はどうなっちゃったの?
ということでした。
とみ:なるほどね〜。現在の一蓮寺は太田町にあるのよね。
この一蓮寺はね、歴史が深くて、信玄さんたちのご先祖に関わる
お寺になるのよ。
美慧:そうなのですか?
とみ:そうなの。以前に、韮崎の記事でお話しした、
甲斐武田としての始祖 武田信義公の長男 一条忠頼の居館自体が
元々の一蓮寺だったの。
美慧:ほぉ!だから、”一条”小山という名も。
とみ:そうよ。平安時代末期、甲斐武田氏の活躍が目覚ましくなったことを
疎むようになった鎌倉の源頼朝によって一条忠頼は謀殺されたと
伝わっているわ。これを裏付けるように、
甲斐源氏に対する頼朝の粛清は他にもあったのよね。
美慧:信義公の甲斐武田氏としての船出は大変だったのですね…。
とみ:そうね。源頼朝公と武田信義公は源平合戦の前はほぼ同格の
立場だったけれど、頼朝公から見ても武田の強さは味方とはいえ、
脅威となって、自分のコントロール下に置くためにいろいろ
手を回したということなのでしょうね…。
話を戻すわね。一蓮寺は、その 一条忠頼公を弔う目的で
夫人が尼寺を開いたところから始まったの。その後、武田家の子孫が
一条家に入り僧侶となった上、鎌倉時代、当時にとても流行った時宗のお寺
として創建された、と甲斐国志には記されているわ。
美慧:時宗というと一遍上人の踊念仏で盆踊りのルーツともなったという…。
とみ:そう、よく知ってるわね。
この辺りの宗派も当時の流行と合わせて賑わいに繋がったということも
あったかもしれないわね…。
戦国期に一条小山にあった一蓮寺界隈は周辺で随一の歓楽街で、
信虎公がこの周辺の賑わいにも注目して府中の移転を決めた、ということは
大いにあったことでしょうね。
美慧:そして、甲斐武田氏滅亡から江戸初期の間に甲府城築城のため
お寺は移転する訳なのですが…。
とみ:移転しても一蓮寺は、賑やかだった。
「甲府で一番の繁昌の地」との記録が江戸時代の資料に残っているわ。
美慧:移転しても変わらず、甲府で一番の繁華街ですか
では、一条小山がパワースポットというより、
一蓮寺がパワースポット?
とみ:それは、分からない。
結果的にいずれもがそうだったということではないかしらね?
美慧:ほぉ〜
とみ:あくまででも私の個人的見解よ。
それはそうと、さらに一蓮寺さんがすごいのは
歴史的な貴重な記録が現在まで残っていること。
「一蓮寺過去帳」と言って、鎌倉時代〜江戸時代までの
「誰がどこの住所でいつ誰のために供養したのか?」の記録が残っているのよ。
美慧:と、言いますと、信玄さんの時代も?
とみ:もちろんよ。「甲陽日記」で有名な駒井高白斎の他にも
甘利虎泰、春日虎綱(高坂弾正)、山県昌景、原昌胤などなど…。
美慧:
とみ:美慧ちゃん?
美慧:は、はい、聞いています
かなり貴重な記録ですね〜。
とみ:この記録があったことで、信濃などに出ていると考えられていた
信玄さん配下の武将たちは、割と甲府に在住していた可能性もあった
と研究者の間では読み解いているそうよ。
ではでは、本日はこの辺で。
幾多の歴史を乗り越えて、貴重な資料と共に時を刻む一蓮寺さんの
ご案内を美慧ちゃん、よろしく〜
美慧:かしこまりました!
ご本尊 阿弥陀如来
甲府市太田町5−16 遊亀公園のお隣です。
今年は こうふ開府500周年を記念して貴重な寺宝が公開されていたようです。
またいつか機会があるといいですね