【日本社会文化深層考】
腋毛論 第18話
「配慮」という名の暴力と、公私の恣意的な境界
前回は、男性への処理圧力の急速な拡大と、男女双方の性的二形性が人工的に曖昧化されつつある問題を考えた。
今回は、日本的思考様式の深部にある「他人への配慮」という概念が、いかにして身体の自律性を侵食する暴力的メカニズムとして機能しているかを考える。
そして腋毛処理率と陰毛処理率の間に存在する極端な非対称性に注目し、
この非対称性が日本的思考様式の根本的な矛盾をいかに露わにするかを分析したい。
「他人に迷惑をかけてはならない」
この言葉は、日本の子どもたちが幼い頃から繰り返し聞かされる、
最も基本的な道徳的訓えの一つである。
集団生活の中で他者を尊重し、社会的調和を維持するための重要な価値観を体現している。
日本社会の多くの美徳、たとえば礼儀正しさ、細やかな気配り、
公共空間での静粛さなどは、この「他者への配慮」の精神から生まれている。
しかし、この美徳が身体の管理にまで及ぶとき、それは別の何かへと変容する。
腋毛処理は「他人のため、社会のため」という外向きの動機に基づいて語られることが多い。
「公の場で腋を見せるのだから、処理しておくのが当然の配慮だ」という論理は、
一見すると日本的な思いやりの精神の表れのように見える。
しかしこの論理を丁寧に解体してみると、
その内部に深刻な問題が潜んでいることが見えてくる。
まず、この論理の前提を確認しよう。
「腋毛を見せることが他人に不快感を与える」という前提が、
議論の出発点とされている。
しかし、この前提自体が問われなければならない。
なぜ自然な体毛の存在が「不快感を与える」のか。
それは腋毛が本質的に不快なものだからではない。
「腋毛は不快なものだ」という社会的学習が先行して存在しており、
その学習の結果として不快感が生じているのである。
つまり「腋毛は不快だから処理すべき」という論理は、循環している。
腋毛が不快とされるのは処理すべきという規範があるからであり、
処理すべきという規範は腋毛が不快だという感覚によって正当化される。
この循環論法の外に出て考えれば、
腋毛が本質的に不快である根拠はどこにも存在しない。
「他人に不快感を与えない」という配慮は、
本来、言動や振る舞いに適用されるべきものであり、
身体の自然な状態にまで適用されるべきではない。
自然な体毛を持つことが「他人への迷惑」とされる社会とは、
身体の自然な状態そのものが否定された社会である。
そこでは女性は「自分自身がどう感じるか」ではなく、
「他人がどう見るか」「社会がどう評価するか」という外部基準に常に縛られている。
これは身体を「自己のもの」ではなく「社会的な展示物」として扱う発想であり、
個人の尊厳を軽視するものだ。
フーコーが『監獄の誕生』で論じたパノプティコン的な権力構造は、
腋毛処理の強制においても鮮明に現れている。
法律や明示的なルールがあるわけではないが、
「配慮」という名の社会的規範として内面化され、女性は自ら進んで処理を行う。
そして規範に従わない者は社会的制裁を受ける。
この巧妙な支配メカニズムによって、
女性の身体は細部にわたって管理されているのである。
さらに問題なのは、この「他者視線」が実際には特定の男性的視線や商業的に構築された美の基準に他ならないことである。
女性の未処理腋毛に対する男性の否定的評価は極めて厳しく、
「女性として見れない」という極端な意見まで存在する。
これは女性の身体が、
男性の欲望を満たすために存在するという家父長制的発想の現れであり、
女性を主体的な存在としてではなく客体としてのみ認識する暴力性を含んでいる。
次に、腋毛処理率と陰毛処理率の間に存在する極端な非対称性という問題へ移ろう。
数字が、矛盾を語る。
日本女性の腋毛処理率は80%から90%に達する。
しかし腋毛と陰毛の両方を処理する女性は20%から25%に留まっている。
つまり腋毛を処理している女性の圧倒的多数が、陰毛は処理していないのである。
この極端な非対称性は、
腋毛処理の論理的根拠として最もよく語られる「公私の区別」を、
一見すると支持するように見える。
腋毛は「公の場」で露出する部位だから処理が義務とされ、
陰毛は「私の領域」だから処理は個人の選択に委ねられる、という論理である。
しかしこの論理を丁寧に解体していくと、
その内部に深刻な矛盾が潜んでいることが見えてくる。
「公の場で露出する部位だから処理すべき」という論理が成立するためには、
「自然な身体の状態を公の場で見せることは、他者に不快感を与える」という前提が必要である。
しかしなぜ自然な身体の状態が他者に不快感を与えるのか。
この問いに対する唯一の答えは、
「腋毛を不快とする社会的規範がすでに存在するから」というものである。
つまり処理すべきという規範があるから不快とされ、
不快とされるから処理すべきという規範が正当化される。
この循環の外に出れば、
自然な腋毛が本質的に不快である根拠はどこにも見当たらない。
次に、「公」と「私」という区別そのものの恣意性を問おう。
腋毛は「公」であり陰毛は「私」という区別の根拠は、
見られるか見られないかという単純な基準に基づいている。
しかしこの基準は、腋と陰部の間の区別として一貫して適用されているわけではない。
温泉、プール、銭湯、スポーツジムの更衣室など、
日本の日常生活には陰部が他人に見られる場面が日常的に存在する。
にもかかわらず陰部の処理は個人の選択とされ、腋毛の処理は義務とされる。
この非対称性は論理的整合性を欠いている。
「ハイジニーナ」の普及という現象も、この論理の問題点を浮かび上がらせる。
2000年代以降、陰部の処理もまた若い世代の間で広まり始めている。
かつて「私の領域」として処理を免れていた部位が、
今や「清潔感のため」「パートナーのため」という言葉とともに、
処理の対象として組み込まれつつある。
これは偶然ではない。
「見られる部位だから処理すべき」という論理は、
見られる範囲が広がれば広がるほど処理の範囲も拡大していく、
終点のない論理だからである。
美容産業の市場拡大とともに、
かつて「私的な領域」だった部位が、
今や美容サービスの対象として「公的な管理の領域」へと組み込まれつつある。
腋毛と陰毛の処理率の非対称性は、
現在の「常識」が安定した均衡点ではなく、
変化の途上にある過渡的な状態にすぎないことを示している。
腋毛処理が「常識」となったように、陰毛処理もやがて「常識」となるかもしれない。
その流れを自覚することが、
処理の拡大が誰の利益のために起こっているかを見極めるための重要な視点となる。
公と私の境界の恣意性を認識することは、
「処理の常識」全体の恣意性を認識することへと繋がる。
そしてその認識が、より自由で自律的な身体のあり方へと向かう道を開く。
日本的な「配慮」の文化は多くの美徳的側面を持つが、
それが身体の管理にまで及ぶとき、
過度な抑圧となる危険性があることを、僕たちは深く認識しなければならない。
次回からは第5章に入り、規範からの解放という主題を正面から論述したい。
腋毛処理という社会的規範を拒否することが持つ精神的優位性と、自己一致という概念から見た自然体の意義を考える。
闘病名
多腺性自己免疫症候群(型が混在)
★下垂体前葉機能低下症(リンパ球性下垂体炎により)
・副腎機能低下症(アジソン病)
・中枢性甲状腺機能低下症
・重症成長ホルモン分泌不全症
・ステロイドDM(1型糖尿病に準ずるステロイドホルモン糖尿病)
・周期性甲状腺機能亢進に伴う甲状腺炎
★副甲状腺機能低下症
★膠原病群
・全身性エリテマトーデス
・シェーグレン症候群
・ベーチェット病
★高血圧(8種類の血圧の薬)
★慢性心不全
★頻脈
★貧血
★線維筋痛症
★特発性過眠症
★慢性顎骨蜂窩織炎
★(慢性的に年4回ぐらい発症する)悪性外耳道炎(頭蓋底骨髄炎)
★足根幹症候群
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