こうようのブログ(知能指数184で、下垂体機能低下症、多腺自己免疫症候群、膠原病、線維筋痛症、特発性過眠症、副甲状腺機能低下症)

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神童と天才と呼ばれ、下垂体前葉機能全部低下、副甲状腺と中枢性甲状腺機能症と特発性過眠症、線維筋痛症、その他多数の難病を不可解な治療中止や治療妨害で悪化させ、余命数週間から奇跡の復活を遂げた仕事人&カサノバを目指すブログ

 

手を振りたかった

『翳りゆく部屋』と不在との対話

 

 

【後編】『翳りゆく部屋』が紅白で流れた大晦日

5、歌詞との共鳴──『翳りゆく部屋』が映す僕の人生

紅白で久しぶりに聴いた「翳りゆく部屋」の歌詞は、若い頃に聴いていた時とは全く違う意味を持って迫ってきた。

パイプオルガンの前奏が始まる。

荘厳な和音が、空間を満たしていく。

教会の高い天井から降り注ぐ光のように、 音は上から下へ、 そして再び上へと昇っていく。

循環する音楽。

終わりのない祈り。

「窓辺に置いた椅子にもたれ あなたは夕陽見てた なげやりな別れの気配を 横顔に漂わせ」

僕たちの別れの日も、夕暮れだった。

僕らに差し込む光は、 オレンジ色に染まっていた。

彼女は窓の外を見ていた。

僕の顔を見ることができなかったのだろう。

僕も、 彼女の横顔しか見ることができなかった。

正面から向き合えば、 涙が溢れることが分かっていたから。

彼女の横顔が、夕陽の光の中で輝いていた。

いや、輝いていたのではない。

翳っていた。

光が当たっているのに、なぜか影のように見えた。

それは、 もう失われつつある何かの最後の輝きだった。

「なげやりな別れの気配」。

この言葉が、あまりにも正確に、あの日の空気を表現している。

別れたくないのに、別れなければならない。

その矛盾が、 なげやりな態度として表面化する。

それは冷たさではなく、耐えきれない悲しみの裏返しなのだ。

投げやりになるしかない。

そうでなければ、崩れ落ちてしまうから。

オルガンの音が、この情景に重なる。

なげやりな別れに、荘厳な音楽が流れる。

その不釣り合いさが、かえって別れの重みを際立たせる。

「二人の言葉はあてもなく 過ぎた日々をさまよう」

何を話せばよいのか、もう分からなかった。

別れることは決まっている。

未来の話はできない。

だから、 言葉は過去の中を彷徨うしかない。

「あの時、楽しかったね」

「あの場所、また行きたかったね」。

しかし、 それらの言葉は、もう実現しない未来を指している。

過去形で語られる希望ほど、 悲しいものはない。

言葉は、あてもなく、さまよう。

部屋の中を漂い、窓の外へ逃げようとし、しかし出口を見つけられずに、また戻ってくる。そして、やがて力を失って、床に落ちる。

沈黙が、部屋を満たす。

その沈黙の中で、 見えないオルガンが鳴っている。

耳には聞こえない。

しかし、心には聞こえる。

別れの儀式を荘厳に彩る音楽が、確かに鳴っている。

「ふりむけばドアの隙間から 宵闇がしのび込む」

彼女が部屋を出ていった時、僕は振り返ることができなかった。

ドアが開く音がした。

外の空気が、部屋に流れ込んできた。

それは冷たい空気だった。

宵闇を含んだ空気だった。

そして、ドアが閉まった。

静かに、しかし決定的に。

その瞬間、 何かが終わったことを悟った。

宵闇が部屋に忍び込んでくるように、孤独が僕を包んだ。

それは物理的な暗さではなく、存在の暗さだった。

光が消えたのではない。

光の意味が失われたのだ。

窓から夕陽が差し込んでいても、 部屋は暗かった。

なぜなら、彼女がいないから。

オルガンの音が、この暗闇を満たす。

しかし、 音楽は暗闇を追い払わない。

むしろ、暗闇を美しく彩る。

闇の中に、音の光が浮かび上がる。

それは希望ではない。

ただ、美しい絶望だ。

「どんな運命が愛を遠ざけたの 輝きはもどらない わたしが今死んでも」

何度、 この問いを自分に投げかけただろう。

どんな運命が、僕たちを引き裂いたのか。

神を信じるわけではないが、 それでも、運命というものの存在を認めざるを得なかった。

そうでなければ、この不条理を説明できない。

しかし、 振り返れば、それは運命などではなかったのかもしれない。

ただ、現実社会が無機的に流れていただけだ。

僕たちが別れても別れなくても、その流れは変わらなかった。

それでも、 僕たちは別れることを選んだ。

いや、選ばされた。

「輝きはもどらない わたしが今死んでも」。

このフレーズを歌う時、 ユーミンの声が震える。

パイプオルガンの音が、その声を支える。

しかし同時に、その声を天へと引き上げようとする。

地上の悲しみと、天上の祈りが、一つの音楽の中で交差する。

この一節は、今の僕に深く突き刺さる。

彼女が死んだ今、 僕が死んでも、あの輝きは戻らない。

仮に死後の世界があったとしても、 あの時間は二度と訪れない。

時間は不可逆なのだ。

オルガンの音も、一度鳴らされれば、二度と同じ音は鳴らない。

残響は残るが、それは元の音ではない。ただの余韻だ。

記憶のようなものだ。

そして、自宅で静養する僕は、その死が遠くないことを感じている。

「ランプを灯せば街は沈み 窓には部屋が映る」

夜になると、自宅の窓にも部屋の内部が映り込む。

外の世界は遠くなり、 自分の孤独だけが浮かび上がる。

窓に映る自分の姿は、 かつての自分とは違っている。

しかし、心の中には、若き日の自分がまだ生きている。

窓に映るのは、現在の僕か、過去の僕か。その境界が、時に曖昧になる。

ランプを灯す。

光が部屋を満たす。

しかし、その光は、かえって外の暗さを際立たせる。

街は沈み、遠くなる。

僕は、光の中の孤独な島にいる。

パイプオルガンの音が、 その孤独を包み込む。

音楽は孤独を癒さない。

しかし、孤独を美しくする。

孤独を聖なるものにする。

それは慰めではない。

ただ、 孤独を受け入れることを教えてくれる。

「冷たい壁に耳をあてて 靴音を追いかけた」

最も哀しい一節。

彼女が去った後、僕は何度、彼女の気配を探しただろう。

街で似た後ろ姿を見かけると、振り返った。もしかしたら、と思った。

しかし、 それが彼女であることは一度もなかった。

そして、彼女が亡くなってからは、その後ろ姿すらも幻になった。

自宅の壁に耳をあてても、 もう何も聞こえない。

彼女の靴音は、 もう永遠に遠ざかってしまった。

追いかけることもできない。

ただ、記憶の中で、あの音を反芻するだけだ。

コツ、コツ、コツ……遠ざかっていく規則正しい音。

それは、時間が刻む音でもあった。

過ぎ去っていく時間の音。

二度と戻らない時間の音。

壁は冷たい。

それは物理的な冷たさであると同時に、心の冷たさでもある。

オルガンの音が、この冷たさの中を流れる。

温かくはない。しかし、美しい。

冷たい美しさ。

氷の結晶のような、 触れれば溶けてしまいそうな、儚い美しさ。

6、静養という時間──生と死の狭間で聴く音楽

自宅で静養しているという状態は、奇妙な時間である。

完全に日常から切り離されているわけではないが、かといって普通に日常を生きているわけでもない。

外では世界が動いている。

人々は仕事をし、恋をし、別れ、また出会っている。

しかし、 ここでは時間が緩やかに流れている。

いや、 流れているのかどうかも分からない。

時計の針は動いているが、時間の感覚は曖昧だ。

あるのは、自分の身体の変化と、死への接近だ。

この時間の中で聴く「翳りゆく部屋」は、かつてとは全く違う響きを持つ。

若い頃、この曲は他人事だった。

失恋の歌として、 美しいメロディとして楽しんだ。

しかし今は違う。

この歌は、僕の中では僕自身の物語だ。

いや、それ以上のものだ。

これは、 生きてきたすべての時間、 失ったすべてのもの、 そして今なお続く人生についての歌なのだ。

パイプオルガンの荘厳な響きが、静かな部屋に満ちる。

この音色は、 教会で死者を送る時の音だ。

しかし同時に、 生者を祝福する音でもある。

生と死の境界線上で鳴り響くこの音楽は、どちらにも属さず、どちらをも包含する。

僕は今、その境界線上にいる。まだ生きているが、死に近づいている。

オルガンの音は、その境界線を音楽にしたものなのかもしれない。

教会の石造りの壁に反響する音を想像する。

一つの音が放たれると、それは壁にぶつかり、跳ね返り、また別の壁にぶつかり、跳ね返り、幾重にも重なり合いながら、空間を満たしていく。

元の音と反響音の区別がつかなくなる。

過去と現在の区別がつかなくなるように。

生と死の区別がつかなくなるように。

すべてが混ざり合い、一つの音楽になる。

僕の病気は、10数年以上前から、いつ終わってもおかしくない状態だ。

医師たちは首を傾げる。

なぜ生きているのか、と。

僕自身も分からない。

ただ、生きている。

彼女より長く。

まだ僕が、なぜ彼女より長く生きているのか。

事実だけが残る。

なぜ彼女が先に逝き、僕が残されたのか。

彼女こそ、生きるべきだったのではないか。

彼女には、まだやりたいことがあったはずだ。

それなのに、一人で、家族も友人もいない病室で、誰にも看取られずに死んだ。

その孤独を思うと、胸が張り裂けそうになる。

オルガンの音が、その痛みを包み込む。癒すのではない。

ただ、包み込む。

そして、 その痛みを聖なるものに変える。

痛みは消えない。

しかし、 その痛みの中に、何か美しいものを見出すことができる。それがオルガンの音楽の力なのかもしれない。

7、時間の重層性──記憶と現在の交錯

「翳りゆく部屋」を聴いていると、時間の感覚が変容する。

過去と現在が混ざり合い、どちらが本当の時間なのか分からなくなる。

オルガンの音が、時間の境界を溶かしていく。

残響が現在に過去を引き込み、 現在が過去に滲み出していく。

若い時が、目の前に現れる。

窓辺の椅子、 差し込む夕陽、 彼女の横顔。

光と影が交錯し、すべてが少し曖昧だ。はっきりと見えるようでいて、霞がかかっているようでもある。

記憶とは、そういうものだ。

鮮明なようでいて、実は曖昧だ。

しかし同時に、今の僕の空間は存在している。

寝具、薬、静かな時間。

テレビから流れたパイプオルガンの音。二つの空間が、重なり合って存在している。

僕は、二つの時間を同時に生きている。

彼女の声が聞こえる気がする。

笑い声、ささやき、別れの言葉。

しかしそれは幻聴だ。

彼女の声を録音したものは、何も残していない。

記憶の中にしか、その声は存在しない。

そして記憶は、時間とともに変質する。今、僕が思い出す声は、本当に彼女の声なのだろうか。

それとも、 僕が作り上げた虚構なのだろうか。

オルガンの音の中で、すべてが混ざり合う。

過去と現在、現実と幻想、生と死。

境界が溶け、すべてが一つの音楽になる。

それは混乱ではない。むしろ、統合だ。

バラバラだったものが、音楽によって一つになる。

時間は残酷だ。

すべてを奪い去り、すべてを変質させる。

若かった僕たちは歳を重ね、彼女は病み、そして死んだ。

輝いていた時は終わり、 約束した未来は実現しなかった。

時間は、 僕たちに何も残してくれなかった。

しかし同時に、時間は優しくもある。

痛みを和らげ、受け入れることを教えてくれる。別れの直後は、生きていることすら苦痛だった。

しかし、時間が経つにつれ、その痛みは鈍くなった。

完全に消えることはないが、 日常を生きることができるくらいには、和らいだ。

そして今、 自宅で静養しながら無を意識する身となり始めたのに、再びあの痛みと向き合っている。

しかし、それは以前とは違う痛みだ。

若い頃の生々しい痛みではなく、 人生を生きてきた者だけが持つ、深い哀しみだ。

パイプオルガンの音が、その哀しみを美しく彩る。

哀しみは消えない。

しかし、 音楽の中で、哀しみは昇華される。

ただの痛みではなく、聖なる哀しみになる。

それは、人間が生きることの意味そのものなのかもしれない。

8、振られなかった手──実現しなかった未来との対話

別れの日に語った約束。

年が過ぎ、街で不意に出会い、言葉を交わさず、ただ手を振り合う。

その情景は、美しい幻想だった。

夕暮れの街角で、二人が向き合い、微笑んで、手を振る。それだけ。

言葉は要らない。

ただ、お互いが無事に生きてきたことを確認し合う。

そして、それぞれの道を歩き続ける。

美しい情景だ。

しかし、幻想に過ぎなかった。

もし、本当にその場面が訪れていたら、どうなっていただろう。

僕は、きっと手を振ることなどできなかっただろう。

涙が溢れて、無言ですれ違うことしかできなかったと思う。

彼女は、どうしたのだろうか。

お互いに、あまりにも多くのものを失い、あまりにも多くのことを背負って生きてきたから。

簡単に手を振って微笑むなど、できるはずがなかった。

それができると思ったこと自体が、 若さゆえの幻想だったのだ。

実際の人生は、 もっと複雑で、もっと重い。

もっと哀しい。そして、もっと美しい。

単純な再会の喜びなど、そこにはない。あるのは、 失われた時間への哀しみと、 それでも生きてきたことへの、静かな誇りだ。

しかし、その情景は実現しなかった。

彼女は、その前に逝ってしまった。

僕だけが、あの約束を覚えている。

そして、街を歩く時、時々、彼女の姿を探してしまう。

もう、絶対にいないと分かっているのに。

群衆の中に、彼女に似た後ろ姿を見つけると、心臓が高鳴る。

しかし、それは決して彼女ではない。

振られなかった手。

交わされなかった挨拶。

実現しなかった未来は、時に、実現した現実よりも強く心を占める。

なぜなら、 それは永遠に可能性のままだからだ。

彼女が生きていれば、いつかは実現したかもしれない。

しかし、彼女の死によって、その可能性は完全に閉ざされた。

パイプオルガンの音が、その空白を満たす。

音楽は、失われたものを取り戻すことはできない。

しかし、失われたものの形を、音として浮かび上がらせることはできる。

振られなかった手の形が、 音の中に見える気がする。

交わされなかった言葉が、音の中に聞こえる気がする。

それは幻想だ。しかし、美しい幻想だ。

9、音楽が持つ救済の力──喪失を抱えて生きること

それでも、僕は生きている。

なぜなのか、自分でも分からない。

ただ、まだ死んでいないから、生きている。

それだけだ。

呼吸をし、心臓が動き、血液が流れている。

それが生きているということだ。

意味など、ないのかもしれない。

「翳りゆく部屋」を繰り返し聴きながら、僕は気づく。

この歌は、喪失を歌っているが、同時に、喪失を抱えて生きることをも歌っているのだと。

「輝きはもどらない わたしが今死んでも」

という歌詞は、絶望の表現だが、同時に、死んでも無意味なら生きるしかない、という逆説的な生への意志でもある。

失われたものは戻らない。

それを認めた上で、それでも生きていく。

その覚悟が、この一節には込められている。

パイプオルガンの音が、その覚悟を荘厳に響かせる。

諦めではない。

受容だ。

そして、 受容した上で、なお生きる意志。

それが、この音楽の中にある。

僕は、二つの喪失を抱えて生きてきた。

別れの喪失と、死の喪失。

そして今、自分自身のことを感じている。

三つ目の喪失。

しかし、それでもいい。

人生とは、喪失の連続なのだから。

生まれた瞬間から、僕たちは何かを失い続けている。

時間を、若さを、可能性を、そして多くの人々を。

しかし、失うことによってのみ、 僕たちは生きていることを実感する。

何も失わなければ、生きている実感などない。

痛みがあるから、生を感じる。

哀しみがあるから、 かつての喜びを知る。

「翳りゆく部屋」のパイプオルガンの音色が、静かな部屋に響く。

この音楽は、失われたものへの鎮魂歌であり、同時に、生きている者への祝福でもある。僕はまだ生きている。呼吸をし、考え、感じている。

彼女はもういないが、彼女との記憶は僕の中に生きている。

記憶は、時に重荷だ。

しかし、それは同時に宝物でもある。

時間、空間、夕陽の光、別れの日の沈黙。

すべてが、僕の中に刻まれている。

それは痛みを伴う。

しかし、その痛みこそが、僕が生きてきた証なのだ。

オルガンの音が、教えてくれる。

喪失は、終わりではない。

喪失は、新しい形の存在の始まりだ。

失われたものは、記憶の中で永遠に生き続ける。

そして、その記憶を抱えて生きることが、死者への最大の供養なのかもしれない。

10、終わりに──歌が照らす生の意味

紅白歌合戦で「翳りゆく部屋」を歌ったユーミンの声にも、歳月が刻まれていた。

かつての透明感は失われ、代わりに、人生を生きてきた者だけが持つ重さがあった。

その声で歌われる「翳りゆく部屋」は、もはや若い娘の失恋の歌ではなかった。

それは、生きてきたすべての時間、失ったすべてのもの、そして今なお続く人生についての歌だった。

パイプオルガンの音色が、その声を支え、包み込み、天へと運んでいく。

1976年から2025年まで、約50年。

その間に、どれほど多くの人が、この歌を聴いて涙を流しただろう。

どれほど多くの人が、 自分自身の「翳りゆく部屋」を思い出しただろう。

そして今、静養する僕もその一人だ。

涙が溢れたのは、悲しかったからだけではない。

この歌が、失われた時間の美しさを、そして今ここにある自分の存在の儚さを、同時に教えてくれたからだ。

人生は短く、大切な人々は去り、その中の約束は果たされない。

しかし、それでも、僕たちは生きる。

記憶を抱え、痛みを抱え、それでも生きる。

頭の中で繰り返し鳴り続けるこの曲を、僕は死ぬまで聴き続けるだろう。

若き日の光景とともに。

そして、 もう二度と会えない面影とともに。

それは苦痛ではない。

むしろ、生きてきた時間の豊かさを、そして失ったものの大きさを確認する、大切な儀式なのだから。

振り合うはずだった手は、 もう永遠に振られることはない。

しかし、心の中で、僕は今も手を振っている。

見えないものに向かって。

そして、いつか僕が死んだ時、もしどこかで再会できるのなら、その時こそ、言葉を交わしたい。

泣きながらでもいい。

ただ無言ですれ違うのではなく、ちゃんと向き合って。

音楽は、時間を超える。

「翳りゆく部屋」は、1976年に作られたが、2025年の自宅でも、その意味を失わない。

それどころか、時間を経るごとに、新たな重みを獲得している。

なぜなら、この歌が扱っているテーマ、喪失、記憶、時間の経過、そして生きることの意味は、 人間が存在する限り、永遠に更新され続けるものだからだ。

窓から、夕陽が差し込んでいる。

翳りゆく光が、部屋を染めている。

オレンジ色から、紫色へ。

やがて、藍色へ。そして、闇へ。

しかし、その翳りの中に、かつての輝きの残照がある。

そして生きてきたすべての瞬間が、静かに輝いている。

パイプオルガンの音色が、まだ耳の奥で鳴っている。

それは別れの音楽であり、同時に、出会いの音楽でもある。終わりの音楽であり、同時に、始まりの音楽でもある。

そして、生きている者への、優しい祝福の音楽でもある。

教会の高い天井から降り注ぐ音を想像する。

石造りの壁に反響し、 幾重にも重なり合い、 空間を満たし、 やがて静寂へと溶けていく。

しかし、音が消えた後も、何かが残る。

残響ではない。

もっと深いもの。魂に刻まれた何か。

それは、言葉にできない。

ただ、感じることしかできない。

僕は、この音楽とともに、残された時間を生きていくだろう。

喪失を抱え、痛みを抱え、しかし同時に、かつての輝きをも抱えて。

それが、生きるということなのだから。

現実社会は無機的に流れ続ける。

僕たちを引き裂いた障壁も、別れても別れなくても、結局何も変わらなかった現実。

時は淡々と過ぎ、彼女は逝き、僕は残された。

それだけのことだ。

しかし、その「それだけのこと」の中に、人生のすべてが詰まっている。

どれだけの時間が残されているのか分からない。

しかし、残された時間がどれほど短くても、この音楽とともに、この記憶とともに、僕は生きていく。

翳りゆく部屋の中で、翳りゆく光とともに。

そして、いつかすべてが闇に沈む時まで。

その時、パイプオルガンの音が、僕を迎えに来るだろう。

教会の高い天井から降り注ぐ、荘厳で美しく哀しい音色が。

それは、終わりの音楽であり、同時に、新しい始まりの音楽でもある。

僕は、その音楽に身を委ねるだろう。

泣きながらでもいい。ちゃんと向き合って。

翳りゆく部屋の中で、光は消えていく。しかし、音楽は残る。

パイプオルガンの残響が、永遠に響き続ける。それは、生きた証であり、そして、失った証でもある。

すべてが、一つの音楽になる。

美しく、哀しく、そして、聖なる音楽に。

【後編・了】

 

 

 闘病名

 多腺性自己免疫症候群(型が混在)

★下垂体前葉機能低下症(リンパ球性下垂体炎により)

 ・副腎機能低下症(アジソン病) 

・中枢性甲状腺機能低下症

・重症成長ホルモン分泌不全症

・ステロイドDM(1型糖尿病に準ずるステロイドホルモン糖尿病)

・周期性甲状腺機能亢進に伴う甲状腺炎

 ★副甲状腺機能低下症

★膠原病群

 ・全身性エリテマトーデス

 ・シェーグレン症候群

 ・ベーチェット病

 ★高血圧(8種類の血圧の薬)

★慢性心不全

★頻脈

★貧血

★線維筋痛症

★特発性過眠症

 ★慢性顎骨蜂窩織炎

★(慢性的に年4回ぐらい発症する)悪性外耳道炎(頭蓋底骨髄炎)

★足根幹症候群


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