〉モノを描くとき、嫌になる程資料を読み込むのは必須

耳が痛いです。もげそうです。穴から血が噴き出しそうです。
絵方面だけでなく文字もですね。
日本の評論家やそれに類する人は輪をかけてそれが不足していると思いますが。

ふと、大学時代の「コミ原」のテキストを読んでいて面白い公式を見つけました。

以下「言語学とは何か」より抜粋。どうやら言語学的見地では言語をもたないなら概念は生まれないようなので、某宇宙人は嘘を言っていることになります(笑)。この点、うちの綾さんの方が正しいのかな?


ソシュールにとって、言語記号とは《概念》と《聴覚映像》があたかも一枚の紙の表裏のように一体となったものであった。

記号(signe)=記号内容(signifie)/記号表現(signifiant)

という図式でも表されるように、すべての記号は記号内容(その記号の意味・価値)と記号表現(このおかげで前者が表現されるもの)とを持っている。そしてこの記号の特性は、線状であり、示差的であり、恣意的であるといわれる。この恣意性には二つの重要な意味がある。
第一には、例えば[j-a-m-a]という音の組み合わせと、《山》という概念の間には何ら必然的なつながりもないという《無縁性》で、これはどこの国語にもある少数の擬声語を除けば誰にも容易にうなづかれよう。記号の恣意性の重要さは、むしろ第二の点にある。すなわち、連続体である現実を、不連続体に区切っていくその区切り方の恣意性がそれである。
(中略)
また、言語とは、普通考えられがちな《名称のリスト》ではないことが、記号の恣意性から明らかにされる。多くの人々は、それぞれの国語の単語が、動物とか概念などと一対一の対応をしているように思い込んでいる。これは聖書やプラトン以来の誤った固定観念で、言語記号が《物》と《名》を結ぶものだという考え方であった。いきおい、第二の言語を学ぶことは、新しい呼び名、新しいレッテルを知ることであり、すべての物、概念がどのような言語社会にも共通していると考えてしまう。このような考え方に立つと、世界がアプリオリに秩序をもち、人間を離れてカテゴリー化され、分類化されていて、各言語はそれぞれ既存の事物や概念に《名づけ》をすることになってしまう。ところが現実は、《ことばがあってはじめて概念が生まれる》のであり、すべての言語は《経験データの固有の恣意的な組織化》である。