今日は牛田さん、帯広でのリサイタルでしたね。

きっと素晴らしいリサイタルだったのだと思います。


9月から怒涛のように行われたコンサート、リサイタルも

少し休憩ですね。


ありがとう。

お疲れ様でした。


牛田さんのおかげで、この年月どれほど心が救われたことか。


以下私ごとです。

牛田君情報ではありません。

牛田君情報を望まれる方は、ここまでで(*^_^*)















今日は母の告別式でした。


昨夜は、葬儀会館で母と一緒に泊まりました。


あまりにも疲れていて、すぐに眠れたものの、2時間もすると、目が覚めてしまいました。


となりに眠る、母の棺をずっと見つめていると、

リスト「愛の夢」のもとになった

ドイツの詩人、フェルディナント・フライリヒラートの詩を思い出しました。

「愛しうるかぎり愛せよ。墓場にたたずみ、ながきかなしむときがくる」


詩の言葉のひとつひとつが、胸を貫きました。

「今はしずかに眠っている。もうふたたび目をさましはしない」


母を、自分は精一杯愛しただろうか。

でも、後悔ばかりが押し寄せ、引きちぎられる想いばかりでした。


私は、母が倒れてからも、どこかで「きっと大丈夫」と信じてきたのです。

まだ、いくはずがない。だって、こんなに元気ではないかと。


母は、3月17日に血液検査データーが悪いと入院しました。

大きな病院への転院を薦められたものの、

先生があちこちに電話をしてくださったものの、

どこでも断られ続け

やっと転院できたのは3月23日でした。

3月20日までは、元気だったんです。入院していても。

21日から少し辛そうになりました。

22日から、痛みを訴えるようになりました。

でも、ここの病院では、人工透析のほかは、抗生物質の点滴しかできませんでした。


23日に転院したときには、七転八倒の苦しみでした。

午後になりやっと少しだけ痛みをおさえることができました。

先生には、明日からするべき検査などの説明を受けました。

まだ、大丈夫だと信じていました。先生から、

「危険。でも、ここをのりきれば、まだ大丈夫」と言われていても。

大丈夫だと、信じていました。

24日になると、もう、話ができなくなりました。そして、そのまま母は

静かに、眠ってしまいました。何一つできませんでした。


後には、後悔ばかりが残りました。


まだ、できることが、たくさんあったのに。

どうして、もっと、母を大切にできなかったのだろう。

もっと、母と話せばよかった。

教えてほしいことが、たくさんあった。

もっと、母の話を聞けばよかった。

もっと、母を愛せばよかった。











そのときふいに

リスト「愛の夢」のピアノが

牛田さんの弾く、

いや、3月14日に聴いた

牛田さんの「愛の夢」のピアノの音が

耳にはっきりと聴こえてきました。

幻聴ですけど。


でも、その音楽は、あまりにも優しくて。

この詩に、リストはあんなにも優しい曲をつけたのですね。


牛田さんは、あんなにも愛と優しさと思いやりに満ちた

演奏をされたのですね。


そして

ショパンの「別れの曲」が聴こえてきました。


何故なんでしょう。お別れの曲なのにどうしてこんなに

ただ、ただ綺麗な曲なのでしょうね。


綺麗で、綺麗で、優しくて


冷たい、冷たい涙が

ほんの少し、ぬくもりを持ったように思えました。


慟哭の中に、ほんの小さな灯が見えたように思いました。



ありがとう。


いくつもメールをくれた、ファンともさん。


ありがとう。


病気の父を助けて

葬儀の手配をして

あちこちと走り回っている間

ずっと、ずっと、携帯を握りしめていました。

そして、何度も何度もメールを読みました。


牛田さんに出会って、音楽に出会って

ファンともさんに出会えて

すごく、

すごく

すくわれています。


これからだと思います。

まだ、まだこれからなんです。


頑張ります。


ありがとう。

ご心配をかけていたと思います。


大丈夫です。ありがとう。