一週間してやっとFのコードが押せるようになった。指の豆は潰れ、それでもFを押し続けたことによって感覚が麻痺してしまっている。六つの弦が綺麗に共鳴したときは、例えようもない感動と開放感を味わった。Fが弾けるまでFだけを弾き続けろとジュン吉に言われ、忠実にそれを守った。そしてその開放感はとても大きい。

Fを制する者はギターを制す」

 一週間前に言ったジュン吉の言葉はまんざらでもなかった。ADのコードは難なく弾くことが出来た。

 次にジュン吉はそのポジションのままフラットを移動する練習を俺に命じた。弦と指が擦れる音は案外好きな音だ。その音を聞くと、滑らかにギターを演奏する自分を想像出来る。いつの日か、必ず訪れるだろう自分の姿。ステージの上でエリッククラプトンのように、ジミーヘンドリクスのように勇ましくギターを演奏する自分の姿。それを想像すると血液が意気揚々と全身を駆け巡る。

「あなた、何だか最近いい顔してるわ」

 キャサリンが作った甘酒は絶品だった。

「そう?キャサリンが作る美味しい手料理のおかげかな」

 仄かに漂う生姜の香りが俺の鼻腔を刺激する。

「あなたの弾くギターも最近良い音になってきてるわ」

 豆だらけの指を見ながら照れ笑いをした。凸凹の指はまるでモーグルで滑る雪山のようだ。

 

 ジュン吉に言われた通りに俺は毎日朝から晩まで練習をした。キャサリンは相変わらず俺と子供たちのために朝から晩まで働き、毎日美味しい料理を作ってくれる。ヨーデルとフランキーは徐々に俺になついてくれるようになった。これで俺がギターを弾けるようになったら言うことないなと思った。

 よし頑張ろう。

 

 ギターを始めて一ヶ月が過ぎたある日、俺はいのまるだったときの家に帰ってみることにした。ジョニーが持っている服はどれも細身で、デザインも奇抜なものばかり。紐のような生活をしている俺は、服を買ってくれなんてさすがにキャサリンには頼めない。だから服を取りに戻ることにした。

ジョニーが轢かれた道の前にさしかかった。湧き水のように途切れることなく流れ落ちる赤黒い血と、あり得ない方向に曲がった左足首が脳裏に浮かび、そこから映写機のように目の前の道端に映し出された。

「俺も……味噌汁が……好きだ」

道端に映し出された映像の中のジョニーが呟いた。

「ジョニー……心配ない。俺は頑張ってるから」

俺は映像の中のジョニーに向かって言った。安心した顔で俺を見つめるジョニーは少しずつ薄くなっていき、そして消えた。

平凡な道端が現れた。完全犯罪が起きたあとの何も残ってない現場のように。

「ジョニー、心配するな。俺は頑張るから」

脳裏の中のジョニーも消えてしまった。


いのまる邸は静かに佇んでいた。俺の部屋だった二階の窓が開いていて、そこからタバコのヤニで黄ばんだカーテンが、水中を泳ぐ魚のように気持ち良く揺れている。玄関横の壷の下に手を突っ込み合鍵を引き出し扉を開けた。鍵がかかっているんだから誰もいないだろうと思っていても、恐る恐る中を窺う。目の前には籐のフレームで出来た姿見が元住人を久しぶりに映し出している。

「今はロックスタージョニーっていうんだよ」

 俺は心の中で呟いた。

 靴を脱ぎ姿見の前を通り過ぎ階段を上がる。階段の窓から見える空を、大勢のカラスが近づき頭上を飛んでいった。カーカーと馬鹿の一つ覚えのように鳴き叫ぶカラスに楽しいことってあるのだろうか。幸福はあるのだろうか。

 金属と木が擦れる鈍い音とともに、俺の部屋だった場所が徐々に視界を覆っていく。懐かしい匂いが顔面に触れる。

 ほこりが積もった本棚の最上段に、赤髪と青髪の女の子のフィギュアが二体。窓の横に掛けてあるカレンダーは十一月になっている。そして万年床の布団。

 誰か寝ている。

 誰だ?

俺は物音を立てないように近づき顔を窺った。

 どこかで見たことがある顔。

 俺は記憶を辿った。


ジョニー。


一ヶ月前に死んだジョニーが、俺の部屋だった場所で幸せそうな顔をして寝ている。

いや、死んでるのかもしれない。だって、一年前、俺の目の前で……

脳裏にまたあのときのジョニーが蘇る。本物のロックスターマジシャンジョニー。

頭の中をジョニーが錯綜する。そして目の前のジョニーが寝返りを打った。鼻を鳴らしながら、歯軋りを立てながら、お尻を掻きながら、普通の寝返りを打った。

 生きてる。

見れば見るほどその顔はジョニーだった。息を引き取る寸

前まで一緒にいたんだ。間違いない。地球が時速二千キロメートルの速さで逆周りするかのように、俺の頭も正常さを失い凄い速さで逆に回ったり戻ったり。

俺は踵を返し、逃げるように階下のキッチンへ向かった。

水を飲もう。俺はどうかしている。ジョニーは死んだんだ。仮に死んでないとしても、何故俺の家に?

薄暗いキッチンの中で、神々しく光るシンクの上の蛇口を

捻る。一気に水を飲み干し、二杯目を注いで次はゆっくりと飲み始めた。首から下が新鮮な水で浸っていき、それに感化された頭も次第に冷めていく。

キッチンとリビングを挟んだカウンターは、母が趣味で作

った籐の小物が、他の雑貨を邪魔しないようにさりげなく並べられている。母はこの家で籐の教室を開くほどの腕の持ち主で、近所の主婦たちの間では先生さんと呼ばれていた。一年経った今でもそれは続けているのだろうか。

林の中にいるような、あの独特な籐の匂いを嗅ぎながら、

しばらく籐の小物を眺めた。

その中の一つ。籐で作った写真立ての中に目が入った。籐が写真の周囲に細かく縫いこまれ、そのフレームの左上には花形に形作られた籐が一つ。手に取って凝視した。

その光景に俺は目を疑った。記憶を遡り、その光景を思い出そうとした。

俺に向かって熱狂する沢山の人々。ギターを持った俺は、今よりも格段と鋭い目つきでギターのネックを睨みつけ、左手が振り落とされる瞬間。

写真の右下には、薄くオレンジ色で二〇〇五年とプリントされていた。

今から八年前の出来事だ。


終わり