江戸末期、毛利藩は外敵からの防衛の為に要所に砲台を築造した。上関海峡の両端(室津日和山、長島瀬戸東山)の丘にも砲台が築かれ大砲が備え付けられた。嘉永6年(1853)2月に吉田松陰が江戸へ行く途中、室津の日和山の砲台場を見学した。慶応二年(1866年)四境戦争の際、六月七日に幕府海軍の軍艦富士山丸は上関沖に現れて室津白浦を砲撃したがこの両砲台からの反撃はなかった。
案内板もなにもなかったです

上関大橋
両サイドが砲台跡

詩碑は松陰ゆかりの砲台場があった地に設置されました。
意味 ●松陰が木刀に書いた詩の石碑
故郷に帰っている夢をみて涙をこぼしていた時、船頭が「上関についたぞ」と大声を出したので目が覚めた。夢が夢だったので船室から起き上がるのが遅かったといって怪しまないでほしい。それに、今晩は、室津に泊まって明日は九州。これで長州の土地も見おさめになる。ふるさとの山に未練がないといえばうそになるが、くにを捨てたのだから故郷の山を見るのは忍びなくつらい。




















