古希綴り 下書き その38 | 手作り酵素で妻の癌を治す

手作り酵素で妻の癌を治す

     ~酵素のある暮らし~

最後の海外JOB

 

40歳近くになると、関西グループのとりまとめを任されるようになっていましたが、インドネシアのクレーム処理などで、現地入りします。 

結果3ヵ月ほど、休みはゴルフやテニスを楽しみながら過ごしていました。 

ある日、チェックインの手続きをしていた日本人から 「日本はサリン事件で大変です」 と聞かされます。

 

「ネシアへの 花便りにと サリンかな」 季語:花 晩春

 

この時代になると本社から月に1回、約1か月遅れの週刊誌などが届くようになっていましたが、サリン事件(1995.3.20)は結局4月末に帰国するまでよくわかりませんでした。

 

朝・夕の食事は、街が遠くてほぼ毎日ホテルで食べていました。 その広いレストランでは、週末はジャズバンド(4人)の演奏があります。 

ある週末、まだ客のいないレストランに入ると、ウエイトレスから歌の話をされます。 

はじめはよくわかりませんでしたが、バンド演奏で 「昴」 を歌って欲しいといったリクエストです。

 

「春昴 ネシアバンドで 歌いけり」 

 

ホテルの関係者、78人ほどの前で、覚えている歌詞を繰り返し歌います。 

カラオケでは高音がかすれる曲ですが、プロのバンドは私のキーに合わせていたのか、最後まで気持ちよく歌えました。

 

海外で流れる曲で一番印象的だったのが、テレサ・テン:鄧麗君(デン・リージュン)の声です。 

東南アジアへ出張すると、彼女の歌が街中に流れていましたが、日本でデビューしていたテレサの声だとは気づきませんでした。

 

4月末に帰国し、社宅のある茨木市の焼却場のジョブの準備をしていた時に、テレサの亡くなったことを(1995.5.8)現場で聞きます。

 



 

「五月雨に テレサを偲ぶ 歌声よ 異国の空の 想いで深し」

 

1980年代にタイやシンガポールで聞いたテレサの中国語の 「ホーリー ジュン ザイライ」 は、天使のささやきように耳に染みこんできました。 

あの時のテレサの声は、一生忘れないでしょう。