1840年、アヘン戦争勃発。虎門での林則徐によるアヘンの焼討ちに端を発し、

イギリス軍は軍艦船47艘、陸軍4000人を派遣。

 

海軍少将ジョージ・エリオット、在華商務監督チャールズ・エリオットの指揮下、

珠江口外に続々と上陸、海口を封鎖して戦争が始まりました。

 

 

アヘン戦争を理解するには、その当時の世界情勢と清朝の貿易制度の理解が必要です。

経済的な側面からアヘン戦争を理解できる最も良い博物館は、十三行博物館です。

 

産業革命により、急速な資本主義化を遂げたイギリスは、生産物を売るための

マーケットと原材料の確保のために、植民地を増やして行きます。

 

 

ただ、中国との経済関係では、中国から輸出される生産物が陶磁器や絹織物、

茶葉など当時貴重な物品ばかりだったため、イギリス始め欧米各国は毎年巨額の

貿易赤字を抱えていました。

 

唯一開かれた中国のマーケットこそが広東であり、そこで専門の貿易商として

活躍していたのが十三行と呼ばれる業者組合です。

 

なんとか中国との貿易均衡を図ろうとしてイギリスが目をつけたのがアヘンです。

アヘンについては、もちろん東莞にある虎門博物館に行くことをおすすめします。

当時の状況が細かく再現されています。

 

 

アヘンは広東省を中心に、果ては北京の官界にまで広く蔓延しました。

その状況に危機感を抱いたのが厦門ですでにアヘンの密輸事件に遭遇していた

林則徐です。

 

林則徐(1785-1850年)、字は元撫。湖広総督や陝甘総督などを歴任。

道光帝の時に、欽差大臣として広東のアヘン取り締まりを任じられます。

 

そして1840年6月3日(旧暦4月22日)に、アヘン2万箱、約237万kgを

焼き捨てました。同月、イギリス議会は出兵を可決。1841年1月には、

虎門の戦いで沙角、大角砲台を占拠。

 

 

5月には広州に上陸、現在の沙面を拠点として、広州城(現越秀公園)に

砲撃を開始。清朝の軍隊はなす術もなく「広州和約」を結び、イギリス軍に

対して600万銀の賠償をすることになります。

 

 

現在の広州市内地図を見るとよくわかるのですが、沙面から北上したところに

広州城(越秀公園)があり、その広州城を越えた北側にあるのが三元里です。

 

 

広州城に砲撃を加えるためには、その周辺を取り囲む必要があり、

三元里も占拠されました。

 

 

そこでイギリス軍による物資の強奪、婦女暴行が横行したため、

付近の民衆たちが決起したのが三元里での武装蜂起です。

 

 

三元里古廟は、清朝初期に北帝廟として建てられた場所です。その付近の

住民103戸がこの廟内で決起集会を開き、ゲリラ戦でイギリス兵200名を

惨殺したと記録があります。

 

 

中国が近代化の扉を開く契機となったこの戦いを人民の戦いと称讃して、

戦後元の形に復興させたものが現在ある三元里古廟です。

 

 

現在は、全国重点文物保護単位に指定され、館内は「三元里人民抗英

闘争史跡陳列」として展示館になっています。

 

 

たまに特別展示も開催されており、2019年には林則徐展も開催されました。

 

(おわり)