広州あんてぃーく倶楽部(KAC)の9月度活動報告になります。

 

■日程

9月9日(日)

 

■スケジュール

0800 地下鉄1号線・体育中心駅B出口集合     

0900 街口北帝廟、従化学官大成殿(从化中学内)

1000 従化区博物館

1100 文峰塔

1130 五岳殿

1200 広裕祠

1400 広州到着→昼食

 

今回は、広州市の北東部に位置する従化市が目的地です。広州もその含まれる範囲は

かなり広く、なかなかそこまで足を延ばす機会がありません。今回参加した7名全員

従化市は初見参でした。

 

久しぶりに天気を気にしない爽やかな陽気の中で出発。予定通り1時間程度で最初の

目的地である街口北帝廟に到着しました。

 

 

 

街口北帝廟、創建年代不詳。街口はこの辺りの地名、北帝は南方での呼び方で、

これが北方に行くと「真武」となり道教の最高神の一人を指します。水の神様

であり、四神でいえば玄武に当たります。

 

 

南方の北帝廟はここだけに限らず、今でも民衆の信仰を集めている生きた

廟が多いです。立派な門構えの廟に入って行くと、おばあさんが3名ほどいて、

写経に勤しんでいたり、何かの作業をしていたり忙しくされていました。

 

 

こういう創建年の不明な場所では、柱に刻まれている重修年代などが

手がかりとなるのですが、それらの記載も見当たりません。少なくとも

清代後半くらいには見えます。

 

ついで、従化学官大成殿(要は、孔子廟)に徒歩で向かいます。5分

ほど歩くと、従化中学に到着しました。そう、目的の文物はこの学校

の中にあるのです。

 

 

もともと見れたらラッキーな気持ちで来ていますが、守衛と交渉する

とやはり熱くなって来ます。結局中には入れないし、外から見れる位置

にはないとのことで撤収。

 

 

バスに乗り込んで博物館を目指します。約10分ほどで到着したのは

良いのですが、なんと博物館は内装工事中でクローズ(涙)。

まあ、よくあることです。

 

 

それにしても本日とても気持ちよい天気。暑くもなく、爽やかな風

もあり、2ヶ所見れなかった悲しい事実も清々しい天気が解消して

くれるようです。

 

 

気を取り直して、次の目的地である文峰塔へ。こちらもそんな

に遠くない距離感で、少し小高い丘の上までバスを走らせると、

目の前に塔が出現。

 

 

 

文峰塔。明代の創建。その後、明の万暦年間に一度焼失したらしく、

清の康熙年間に重建されたようです。ただ、それも後になくなって

しまって、現在の塔は1993年に作られたものです。

 

 

よくよく塔に近づいて塔身を見てみると、なるほどトイレのタイル

のようなもので塔身が飾られており、近代建築だなと確認できます。

 

 

ただ、この文峰塔が建っているロケーションが大変素晴らしく、

龍潭河と小海河、そして流渓河が交わるあたりに位置しているため、

塔に登ってから眺める景色は最高です。

 

ただ、現在九層からなるこの塔の階段登りはなかなかハードでした。

 

 

 

塔の向かい側には、これまた近代建築の藍田古廟があり、中に入って

行くと、いきなり仕切り屋のおばさんが太鼓を叩きながら指図して

来たので、全員でなぜか拝礼。うーん、面白い!

 

そこからバスで30分ほど移動。途中臨時に作られた橋をバスにて

恐る恐る越えると、そのすぐ先に次の目的地である五岳殿が見えて

来ました。やっと本格的な古建築!

 

 

 

五岳殿。創建年代不詳。恐らくは明代。道教関連の建物のようですが、

名前の通り五岳を祀っていたようです。入り口に五嶽殿の扁額があり、

そこに「光緒歳次庚寅仲秋吉旦重修」とあるため、1890年に修繕された

ことがわかります。

 

また、奥の梁の部分に「時大明成化陸年歳次庚寅十二月甲辰朔月

拾有染日庚申吉晨重建」の記載が見られることから、1470年に

再建されたことがわかります。

 

 

五岳殿に入る前に、よくよく周辺をみると、その両側には宗祠があり、

その裏手に民家が連なり、目の前には池が作られていて、広東の伝統的

で典型的な村であったことが伺えます。

 

 

 

五岳殿の中に入ってみると、一目でその朱塗りの柱と梁に目を奪われます。

実に立派な建築素材が用いられており、明代建築の風格を垣間見る

思いがしました。

 

 

祀られているのは、『封神榜』の中で五岳を代表する神話の五虎将

である王飛虎、嵩克虎、文聘、崔英、蒋平とのこと。

 

 

 

五岳殿の右となりには、羽善西公祠があり、左となりには、

文植公書舎があります。

 

 

 

こちらも中に入ってささっと見て回ります。

 

 

 

どちらも空き家なので、特にみるべきものもないのですが、

羽善西公祠の方は、壁のレリーフなどおしゃれな装飾です。

 

 

 

 

 

ここまで駆け足で見て来たので、まだお昼前。昼食をとるか、広裕祠に

先に行くか悩みましたが、その道すがらあまり美味しそうなレストランも

見かけなかったので、昼食は広州に戻ってからとメンバーを説き伏せ、

本日のメインポイント広裕祠へ向かいます。

 

 

実は、広裕祠は、銭崗古村という今に残されている歴史的な古村の中に

ある国保の建物であって、その古村自体を見学できることを今回楽しみ

にしていました。

 

 

銭崗古村。一説によれば、宋代から存在しており、「従化の前に、

銭崗あり」とも言われています。もともとは、銭氏の村だったよう

ですが、いつからか陸一族の村になりました。先祖とされるのは、

前漢時代に南越王を説き伏せた陸賈と南宋最後の皇帝を抱いて

入水自殺した陸秀夫です。

 

 

 

門だけが孤立して残っている南門をくぐっていざ入村。

 

南門のすぐ横にある村の資料館は閉館中。しょうがないので、

広裕祠を目指して大きな丸石が敷き詰められた道を村の奥へと

進んで行きます。足裏のツボが刺激されます。

 

 

 

現在村自体に人が住んでいる気配はなく、家屋も倒壊したような

ものも多いです。しばらく歩くとこの村の中心地である広裕祠に到着。

が、ここも閉館中(涙)。

 

 

広裕祠。南宋最後の皇帝と入水自殺をした陸秀夫の子孫が、密かに

隠れてこの銭崗村にたどり着き定着したのが始まりで、陸氏の宗祠

となったようです。正式には、「陸氏広裕宗祠」となっており、

陸広裕という人を祖とする祠であることがわかります。

 

 

見慣れないプレートがあるためよく見てみると、世界遺産及び

アジア太平洋遺産に関わる内容でした。どうやら2003年に

ユネスコの「連合国文化遺産保護大賞」を受賞したようです。

 

広裕祠が開いてないのは、そもそも開いてないのか、それとも時間が

昼時なので開いてないのかわかりませんが、中が見れないのは大変残念。

 

 

 

しょうがないので、村の他の見どころを見て歩きます。四方の門が

残っていて、北門を迎龍門と言います。

 

 

ボロボロですが、本来の形を残していて味があります。

 

 

 

西側には、西向更屋があり、この入り口の上部には、「江城図」と

呼ばれる見事な木彫りの装飾がされています。

 

 

 

西楼の扁額がかかった屋内には、首がない木彫りの装飾が目につきます。

文革の影響でしょうか。

 

 

西門は、鎮華門と呼ばれています。こちらは最近修築したようで

完全な形を残しています。

 

 

 

西門の外に、陸氏宗祠があり、おそらくこちらの方が陸氏の本家

かと思われます。やはり開いてません。

 

時間もそこそこになってきて、塔に登ったせいか足もだるくなって

きたので今回はここまでとして撤収となりました。

 

14時には広州市内に到着。馴染みの「毋米粥太昆堡」にてお粥鍋を

つつきました。