蝉しぐれが聞こえていた。珠子は街からの道が森を抜けて、砂利道が少し大きめの畦道に変わる田圃の真ん中のバス停で、バスを降りた。バスにはほかに、病院帰りのおばあさんが二人乗っているだけで、お互いに聞こえない耳でかみ合わない会話をしていた。バスが揺れ、おばあさんたちの会話も揺れると、珠子は窓の外から入ってくる光に、「帰ってきた」のだということを感じた。バスを降りると、畦道の向こうにある小さなため池が目に入った。そのため池に向かって、用水路の水が勢いよく流れこんでいた。こんなにお天気なのに、山の方は夕立なのかもしれない。畦道を抜けてもう一つの森の手前の、庭に白い軽トラックが止まっている農家の玄関に、珠子は入って行った。ただいま。

座敷は薄暗く、庭先の軽トラックに赤とんぼが止まっているのが開け放たれた硝子戸の向こうに見えた。風鈴がちりんと鳴る。この部屋は、裏庭まで風が通るし、古い農家の作りなので、夏でも涼しい。裏庭を少し潰して建てられた珠子の高校時代までの部屋はプレハブで、夏になると暑くて仕方なかった。せがんでもエアコンはいれてもらえず、受験勉強も扇風機だけで乗り切らなければならなかったので、父も母も田圃に出て、不在(いな)ない時間は、この座敷で勉強していた去年の夏が、まるで遠い昔のように珠子には感じられた。

東京で買ってきたお土産を両親の前に差し出す。母はそれを受け取って仏壇に供え、軽く手を合わせた。父は農作業の途中で抜けてきた作業着のまま、タオルで汗を拭きながらレモン水をごくごく飲んでいる。ちゃぶ台をはさんだ向こう側にはいつもの風景。でも私は、そういう両親を悲しませる話をしに、この家に帰ってきたのだと思うと心が痛んだ。
 
学校をやめたの。

父は、レモン水にむせた。母は、真ん丸い目をして少女を見た。

私、デザイナーになりたい。デザイナー?反射的に母が尋ねる。何を言ってるの、お前。

洋服の、デザイナーになりたいの。両親の顔は相変わらずぽかんとしたままだ。やがて父が、言葉を慎重に選んでいるのがありありとした様子で、少女に尋ねた。

それは、大学を卒業してからでは、できないのか。少女はうなずいた。うん。もう決めたの。だから今すぐ、その道を目指したい。

何を言っているの。あんなに勉強して、やっと入った大学じゃない。あなたがずっと憧れていて、合格した時にはうち中でお祝いして、近所の人たちからもすごいすごいと褒められた大学じゃない。それなのにそんないい加減なことを言って、何を言っているの。

デザイナーはいい加減な仕事じゃないわ。すごくたくさんの人が目指していて、でも実際にその仕事につける人は一握り。簡単な仕事じゃないのよ。

それならなおさら、勉強しかしてないお前には無理じゃない。考え直しなさい。

もう決めたの。珠子!

父は押し黙っている。母は真っ赤になっている。仕方ない、こうなることは目に見えていた。レモン水の氷が、ちりん、と溶ける音がした。
 
わかった。父がうなずいた。お前は子どものころから、いい加減な気持ちで物事を決めていく人間じゃないことは、俺はよくわかっている。高校時代の、狭い世間の中で見ていた世の中と、東京に出て広い視野を持ってから自分自身を考え直して、本当に自分のやりたいことがはっきりするということもよくあることだ。

少女は、次の一言を待った。わかってくれるかもしれない、とは思っていた。でも。

学費はどれくらいかかるんだ。お父さん、そんな簡単に。話はまだ終わっていない。学費はどれくらいかかるんだ。

学費は、いらない。え?

学費は、いりません。私は自分で働いて、学費を出します。

父の怒りが爆発した。何を言ってるんだ。働くだと?受験勉強しかしてない十八の娘が、何ができる?母ははっとした。男の人ね?だれか悪い男にそそのかされたのね?

誰にもそそのかされてなんかない。珠子はきっぱり言った。自分で決めたの。自分一人で決めたんです。珠子は強い口調で言った。しかし母は、娘の言葉の微妙な陰影に、その先を尋ねずにはいられなかった。好きな人が、いるんでしょう。少女は押し黙った。そうなのね。悪い男とか言って悪かったわ。好きな人がいるのね。少女は黙ったままだった。父は腕組みをしている。そうなのね。それなら、ここに連れてらっしゃい。

しばらく、沈黙が流れた。蝉しぐれがやけに大きく聞こえた。遠くで、次のバスが停車する音が聞こえた。バスは二時間に一本しかないのに。

好きな人は、いたわ。母は、起こってほしくないことが起こったという顔をして、うなずいた。父は握りこぶしの親指を立てて、自分の眉間を触った。でも、もう別れたの。二人は顔を上げた。私がデザイナーになりたいと考えたのは、その人の影響がないと言えば嘘になるわ。でもその人にそそのかされたわけじゃない。その人は、私がそんな力があるなんて、認めてくれなかった。ううん。珠子は首を振った。認めてくれなかったから私、デザイナーになりたいと思ったの。その人と別れて。

思い出したように蝉が鳴き始めた。夕刊でーす、という声がして、開いたままの玄関の土間に新聞が投げ込まれた。地元の自治体の出来事と、地元の人たちのお悔やみだけがメインの記事の新聞。百年が一日のように過ぎる、地域の新聞。

学校に入ってすぐ、私はその人と恋に落ちた。父は額を撫で、母はちゃぶ台の上を見た。コップが汗をかいて、濡れていた。来る日も来る日も、その人のことを考えていたら幸せだったわ。でもその人は、いつも私が目が覚めたときにはいなくなっていたの。父は咳払いした。ごめんね。でも、その人が好きで好きで、どうしようもなかった。母は下を向いた。心配して心配して、一日中泣き続けたこともある。でも夜、その人が帰って来るともう何事もなかったかのように安心して、その人に抵抗できなかった。どうしようもないことってあるんだ、って私は思った。そんな私を、あの人は子ども扱いしていたわ。いつまでも、自分の足で立って歩けない仔犬だって。少女は目の前のレモン水のコップに向かって話し続けた。

私、初めはそう言われるのが嬉しかった。この人は、私をかわいがってくれているって、そう思ったから。でもそのうち、何か違うんじゃないか、と思い始めた。私は一生懸命背伸びして、あの人の好きなものを吸収して行った。あの人の教えてくれるものは何でも物珍しくて、マロニエの通りのカフェとか、繁華街の小さなブティック、二人だけで食べる隠れ家みたいな和食屋さんとか、単館上映の不思議な映画とか、きっと同じ年代の誰も知らないことを、私に教えてくれてるって凄く素敵なふわふわした感じがしていたの。

母は、自分の知らない世界を語る娘の幸せそうな顔に、少し眩しいものを感じ、そしてどこか嫉妬を感じた。父も、味わったことのない都会の生活に踏み出している自分の娘の話に、どこに話の緒をつけていいのかと考えながら聞いていた。

あの人は大人で、私は子ども。あの人もその関係に安住して、私をほったらかしておいても平気。私は一日中その人のことばかり考えて一日が終わる。ちっとも勉強なんて手につかない。せっかく憧れの大学に入ったのに。お父さんお母さんと、高校の先生と相談して、経営学部を選んだのに、私、まるっきり勉強できなかった。経営に興味がなかったわけじゃないけど、授業にも出なかったわけじゃないけど、でも勉強はしなかったし、できなかった。

日が陰ってきた。父は、首にかけていたタオルで汗を拭いた。母はじっとしたままだ。

私、このままじゃいけない、って思った。でも私、経営の数字を追いかけるには好きなものがたくさん出来すぎてしまった。たぶんいつかは、それも必要になる。でも今は、今しかできないことをしたい。私、洋服のデザインのことを考えていたら、心が動くことがわかったの。これをこうしたら、ああしたらどうだろうとか、このモデルにはこういう服を着せて、とか、このブランドはこういう思想でこういうカットをしているんだとか、しみ込むように自分の中に入ってくるし、湧き出るように自分の作りたい洋服のイメージが出て来るの。

でもその話をしても、その人、あまり反応してくれなかった。私のこと、はなからバカにしてるんだと思ってたけど、でもそうでもなかった。私のアイデアをまるで自分のアイデアみたいに友達に話してるの、私聞いてしまったの。それで私、すっかり恋も冷めてしまって、この人と一緒にいるのはもう終わりだと思った。

その人と別れて、私、思った。私は、自分の力で生きたいの。そして本当の愛も仕事も、自分の力でつかみ取りたい。それからずっと、そのことばかり考えてた。そんなことどうやったら分かってもらえるだろう、って思いながら。

蝉の声は、いつの間にか蜩に代わっていた。父は黙って立ち上がり、電気をつけた。部屋の隅々に、蛍光灯の白い明かりが広がった。

今まで育ててもらったことは感謝してます。いつか必ず恩返しをしますから、今は私のわがままを許して下さい。

少女はちゃぶ台から後ずさり、両親に向かって深々と頭を下げた。

風が通り過ぎた。遠くでバスが止まる音がした。風鈴が鳴った。そしてすべてを包み込む蜩の声の中で、三人はいつまでも黙っていた。

父はぽつりと言った。わかった。それなら好きなようにすればいい。母は驚いて父を止めようとした。自分の思うようにやってみろ。

珠子は顔を上げて父を見た。父は少女を見据えていた。そのまなざしは、今まで見たことのないものだった。

お前にどんな才能があるのか、俺には分からない。お前は勉強ばかりしていたけど、決して不器用なわけじゃないのは子どものころからよく知っている。今の話も俺にはわからないが、本当に服飾デザインが好きなことはよくわかった。だから、自分のしたいようにしてみればいい。働いてお金を稼ぐのも、いい経験だ。母はどこで父を止めようか、そのタイミングをつかめずに戸惑っている。だがな。父は一度視線を落とし、そして再び珠子を見据えた。

いくら金に困っても、借金はするな。働いて、一生懸命稼げばいい。それでどうしてもお金が足りなければ、俺に言え。お父さん。少し黙ってろ。父は母を制して言葉を続けた。

出してもらうのが嫌なら、貸してやるというのでもいい。お前のことだから、そうはいっても借りないと思うが、これは親心から言ってるだけじゃない、これは大事なことなんだ。父は息を吸った。
 
お前のような人間が、しっかりと世の中の役に立って行かなければならないんだ。

思いがけない言葉に、珠子は驚いた。ぽかんとしたまま、父の言葉を待った。

お前は世の中の役に立たなければいけない。その時になって、つまらない過去や理不尽な借金に苦しんでいたら思う存分働けないだろう。それでは世の中の損失だ。だから、世の中に代わって俺が貸してやる。どうしても金がなければ、言って来い。

開け放された硝子戸から、カブトムシが飛んで入ってきて、蛍光灯の笠に止まった。少女は下を向いた。

ありがとう、お父さん。少女はそう言うと、それからあとは声にならず、その場で下を向いて泣いた。母はどうしていいのか分からなかったが、その場で涙をこらえていた。

やれるだけのことをやれ。生きたいように生きろ。でもそれは、お前が何かもっと大きなものに支えられているから出来るんだ。それを忘れるな。少女は涙声で答えた。うん。

父は、ふと声がつまりそうになって、立ち上がった。話はそれだけだ。田圃を見て来る。タオルで顔を拭うと赤い目で言った。ゆっくりして行け。

残された座敷のちゃぶ台の上には、氷の溶けたレモン水が三つ、ちゃぶ台を濡らしていた。

雨が降りそうね。洗濯物を取り込まないと。母が立ちあがった。お母さん。母はにっこり笑って頷いた。お父さんがそう言うなら、私も反対はしません。でも、あなたは大きな責任を負ったのよ。うん。しっかりしないと。わかってる。

もう、あなたは昔からそうなんだから。母は割烹着を着て、腰の後ろで紐を縛り、振り向いて言った。

良かったわね。うん。

どこか遠くで雨が降っている音がした。蜩の声はもう消えていて、ため池の方から蛙の声が聞こえて来た。その合唱が雨を連れて来たのか、冷たい風が吹いて、やがて夏の雨が世界を包み込んだ。