外は大雨だった。郊外の国道沿いにあるプレハブ造りの小さなラーメン屋には、客は一人しかいなかった。その客は初老のうらぶれた感じの男で、汁を半分くらい残して煙草をつけると、そのままカウンターで寝てしまっていた。

店員は手持無沙汰にラジオをいじっている。雑音の中、懐メロが流れて来た。こんな雨の日、もっと景気のいい曲が流れないものかと多少いらいらした気持ちになって、店員は男の丼を下げようとして思いとどまった。どうせ客もいないし、しばらく寝かせといてやろう。その男がどんな仕事をしているのか分からないが、いつも客のいなくなった昼過ぎにやってきて、店主とおしゃべりをしている。店主の友達らしい。しかし今日は店主は休みで、店員が店を任されている。せっかくおれが腕を振るえるって言うのに、こんな雨じゃあ客も来ねえよ。店員はちょっと腐った気持ちになって、客席においてあったスポーツ新聞を拾い上げ、パチスロの記事を読み始めた。

ガラッと引き戸が開いた。いらっしゃい。店員は反射的に新聞を置き、入って来た客に声をかけた。お二人ですか。うん。入って来たのは、少し服を濡らした中年の男と、小学校低学年くらいの女の子だった。二人が並んでカウンターに腰をかけると、男はラーメン二つ、と言った。

はいラーメン二丁。店員は復唱し、麺をつかんで振りざるに入れ、湯の沸きたつ鍋に立てた。二人は黙って座っている。店員はカウンター越しに水の入ったコップを二人の前に置いた。ラジオからは「部屋とワイシャツと私」が流れていた。

女の子の髪は、ずいぶん濡れている。この店の駐車場は少し離れたところにあるので、車で来ても傘を差さないと店に入るまでに濡れてしまう。麺の茹で具合を確かめながら店員は、よかったらタオルお使いになりますか、と声をかけた。黙りこくっていた男は最初、何を尋ねられたのか分からず目をぱちぱちしていたが、ありがとう、と言って白いタオルを受け取って、娘の頭と肩を拭いた。お父さん、私、自分でやる。娘はタオルを父の手から取って、自分で頭と洋服を拭いて、最後に顔を拭いた。よく見ると娘の顔には、泣いたような跡があった。お父さんも拭いて。ああ、ありがとう。父はそのタオルを受け取ると、無造作に頭と肩を拭いた。まだ背中が濡れているよ。おおそうか。私が拭いてあげる。おう、ありがとう。娘は父の背中を拭くとタオルをきれいに畳んで、ありがとうございました、と言って店員に渡した。いえ、どうも。店員は何か恐縮して、タオルを受け取った。

店の前の国道を、大型トラックが走り抜けていく重低音がする。店員はどんぶりにスープを注ぎ、麺が茹で上がるのを待った。幹線沿いのこの店は二十四時間営業で、深夜には長距離トラックやタクシーの運転手たちがよく食べにくる、知る人ぞ知る店なのだ。店員も、ここで働くようになる前には、長距離トラックの助手をしていた。大型免許を取れば自分も運転手になれたのだが、なぜかそんな気持ちになれず、たまたま深夜に訪れたこのラーメン屋で、ぼそぼそと運転手たちが話しているのを黙って聞いて立っている店主の様子を見て、こういう仕事もいいな、と思ったのだ。ちょうど店員を募集している広告を見て、店員はすぐに運送会社をやめ、この店で働き始めた。あれから6年。ようやく一人で店を任されるまでになった。店員は男を見ていて思った。この人も、おそらく長距離の運転手だろう。男は、長距離の運転手に特有の、どこか遠くを見るようなまなざしを持っていた。

お母さんは、普段どんな具合なんだ。ぽつりと男が言った。うん。女の子がうなずいた。いつもと同じ。男は少し空を見て言った。そうか。

麺が茹で上がり、店員はそれを丼に流し入れ、その上に焼き豚とゆで卵、メンマとほうれん草を茹でたのをのせ、ねぎを散らした。お待ち。

少女は箸立てから割り箸を二つ取り、一つを父に渡した。父はそれを受け取り、胡椒かけるかと聞いた。女の子は、いらない、と言った。父親は自分のラーメンに二回、胡椒を振った。

二人がラーメンをすする音が聞こえたのか、カウンターの隅で寝ていた男が目を覚ました。いかんいかん、また寝てしまった。兄ちゃん悪いね。いえ、お疲れだったみたいですから。何、わしなんて何もやっとらんからな。何もやっとらんからひどく疲れるんでな。わざわざ3キロ歩いてこの店にラーメン食べに来るんじゃよ。そうすりゃまた疲れちまって寝ちまうんだけどな。男はそう言うとカッカッカッと笑った。

いくらだい。千二百円になります。オオ安いの。ラーメン600円、チャーハン400円、ギョーザ小200円か。あれ、ビールがあるじゃないか。店主が、今度音山さんにはビールをごちそうしとけと言われてましたので。おおそうか。悪いの。あいつには競馬場で千円貸してやった恩があるからの。あいつはそれで大穴当てよって、それでこの店を開いたんぞ。本当ですかあ?本当も本当、貸してやった本人が言ってるんだから間違いない。じゃから遠慮なくごちそうになるよ。そういうと男は千円札を一枚と百円玉を二枚カウンターに置き、出て行こうとして外の大雨に気づいた。

おお、こんなに降っとるんか。はて。よかったら小止みになるまでお待ちください。いや、大丈夫じゃ。友だちが近所にいるでの。迎えに来てもらう。男は携帯を取り出し、おお、俺じゃ。あのラーメン屋におるんじゃが、凄い雨での。迎えに来てくれんか。おう、おう、そうじゃ、待っとるぞ。電話を切ると男は悪いの、ちょっと待たせてくれ、と言って腰をおろし、やがて再び寝入ってしまった。

ママも言ってた。少女はぽつりと言った。私は何もやってないから、ひどく疲れるって。父はそういう娘をいとおしそうな目で見て、コップの水を飲み、そうか、と言った。まだ、お腹すいてるだろ?娘は、まだラーメンを半分くらいしか食べてなかったが、父はもうスープまで飲み終えていた。うん、お父さん、食べたかったら食べなよ。そうか。まあお前も食えよ。お兄さん、ギョーザ二つ。はい、ギョーザ二枚。

店員は懸けてあったフライパンを取ると、油を引いて火にかけた。ママはね、毎日何もしてないの。コンビニに行くのも大変みたい。私が学校に行ってから、帰って来るまでいつも寝てるの。散らかしほうだい散らかして、私、いつもコンビニのお弁当買って帰って、ご飯だよ、というとようやく起きてくれる。でも半分くらい食べると、もうお腹いっぱい、あんた食べなさい、って言って、また寝てしまうの。

そうか、相変わらずだな。男はため息をついた。前はあんなに活発だったのにな。そうだね。三人で遠出して、よく海を見に行ったよね。お母さん、私より一生懸命になって貝殻拾ってた。お父さんも一緒になって拾ってたら、駐車場の小さいおじさんに、こんなでかいトラック止めっぱなしにしてもらったら困るって怒られたよね。ああ、あの時は大型用のスペースがなかったから普通車のスペースを五台つぶして止めてたからな。でもお母さんがにこにこして、ごめんなさい、私がわがまま言ったもんだから、って言ったら小さいおじさん、急に機嫌がよくなって、家族連れかい、それならしょうがないねって引っ込んじゃった。そうだったな。お母さん美人だったからね。そうだな。男は別れた妻の、風になびくきれいな金色に染めた髪を思い出した。

それで海の帰りに、いつもこのラーメン屋に来たんだよね。私、小さかったからいつも半分しか食べられなくて、お父さんが私の分も食べちゃって。残したらもったいないからな。でもおいしかったね、三人で食べるラーメン。今日だってうまいだろ。うん、でも…少女はべそをかき始めた。ストリングスの悲しいメロディが流れていた。

その時ガラッと引き戸が開いて、女の人が入ってきた。こんにちは。いらっしゃいませ。音山、おりますかね。凄く派手な太ったおばさんだった。でも横顔には、若いころはちょっとモテたかもしれない、と思わせるような面影があった。店員は、友だちってこの人か、このじいさん案外やるな、と内心驚いた。そちらにいらっしゃいます。あ、いたいた。ちょっと、起きてくださいよ。女の人は男を揺り動かした。うん?おう、来たか。来たかじゃないわよ。また寝ちゃって、御迷惑でしょう?うんにゃ、大丈夫。大丈夫。大丈夫じゃないわよ。ほら、店の前に車止めっぱなしなんだから、早く立って。お、おう。小便行きたいな。もうだめよ。近くのコンビニまで我慢して。いや、漏れそうじゃ。もう、早くしてよ。男はそそくさと立ち上がり、よたよたとカウンターの端にあるトイレまでたどりつくと、バーンと戸を閉めた。

音山さんの、お友達なんですか?店員は女の人に声をかけた。は?女の人は一瞬びっくりした顔をし、いきなり豪快に笑いだした。はっはっはっあの人がそう言ったの?はい?やあねえ、格好つけちゃって。私はあの人の娘です。

父と娘は思わずその女の人を見た。あの貧相な老人の娘とは思えない、でっぷりした貫禄のある女の人だった。ああ、娘さんなんですか。いつも音山さんにはお世話になって。店員はどぎまぎしながら答えた。やあねえ、お世話なんかしてないでしょう。どうせあることないこと法螺吹いて、管巻いて、居眠りしてるんでしょ?こちらこそいつもお世話になってます。女の人はお辞儀をした。金色と茶色の交じった長い髪の毛がぱらっと落ちて、でっぷりした肩の下にドッジボールのような巨大な胸の谷間が見えた。その谷間に、象牙の観音様のネックレスが揺れていた。

バタンとドアが開いて、老人が出て来た。いや、待たせたの。お父さん、私のこと友達だって言ったんだって?ありゃ、ばれたか。ばれたかじゃないわよ。うんにゃ、友だちの友だちの友だちはみな友だちだ、と佐良直美も言っとる。だから娘だって友達じゃろうが。何時代の話よ。それにそれは佐良直美じゃなくて水前寺清子よ。おお、女は細かくて困る。それじゃ、世話になったな。もう、しっかりしてよ。いろいろ言うな、お前はだいたい。ごちゃごちゃ言いながら父と娘は引き戸を開けて出て言った。雨は少し小降りになっていた。

少女は一部始終を見ていたが、二人が出て行くと、くっくっくっとおかしそうに笑い始めた。父もそれを見て少し笑った。可笑しかったね、今の人たち親子なんだ。国道を通り抜ける車の音がした。あれは乗用車だろう。ラジオでは杏里の「オリビアを聴きながら」が流れていた。

出会った頃はこんな日が 来るとは思わずにいた
making good things better いいえ済んだこと 時を重ねただけ

父はぼそっと言った。お母さんは、病気なんだ。娘はしばらくじっとして、うん、と言った。病院に入った方がいい。娘は首を振った。お母さん、何度も病院に行ったの。何度も病院に行って、そのたびに薬をたくさんもらってきて、それでも入院しないの。どうしてだ。病院、嫌いなんだって。父は、言葉に詰まった。私だって、よくないと思うよ。いつも薄暗い部屋でカーテン閉めて、ごみ袋の山の中で、煌々とテレビの画面だけが明るくて、その前で寝てるの。今の女の人みたいに太ってるけど、あんなにぱんぱんに膨らんでなくて、もちーっと伸びちゃってる感じ。あんなに元気そうに飛び回ってなくて、いつも肉を引きずってる感じ。そんな状態、ダメだ。思いきって入院させて、妙子、お前はお父さんのところへ来ないか。

娘は押し黙った。透明な悲しい歌声が流れている。お母さん、入院しないよ。どうして。みんな、お母さんをバカにするんだって。お医者さんも、看護婦さんも、一生懸命訴えても、みんなちゃんと聞いてくれないんだって。だから、あたし。

妙子?だから、あたし、お母さんは、あたしがいないとだめなの。少女は真っ赤になってうつむいた。沈黙が流れた。

なんかややこしい話になって来たぞ。店員ははい、ギョーザお待ち、と言ってギョーザを出した。ありがとう。と父が受け取ると店員は、これはサービスです、と言って白いお椀に入ったライスを二つ出した。ありがとう。娘がそれを受け取った。

いただきます。娘はもう一度手を合わせて、白いお米を食べ始めた。ギョーザは?あとで食べる。熱いから。そうか。父は小皿にラー油をたっぷり入れ、酢と醤油を注いでぐるぐると混ぜた。五つつながりのギョーザを一枚はがして、口に入れた。ニンニクの匂いが広がった。美味しそうだね。やっぱり食べる。そうか、美味いぞ。少女はギョーザをひとつ箸でつかみ、二つに割って、ひとつを口に入れた。美味しい。

父は口をもぐもぐさせながら言った。お前が無理をすることはないんだぞ。娘も口をもぐもぐさせながら、肩をすぼめた。俺も、もう何もできないからなあ。裁判所に、お母さんに近づくなって言われているし。とりあえず金を出してやるくらいしかできない。何とか仕事はできてるから、お前たちの生活費を出してやれてはいるけど。調停で、月に一度お前に会えるようにしてくれたから、お前の話も、お母さんの話も聞ける。まあそれで良しとしなきゃいけないとは思ってる。父は、どんどんギョーザを食べている。お母さんは、お前が俺に会うこと、嫌がってないのか。

少女は首を振った。嫌がってないよ。私とお父さんはもう終わりだけど、あんたたちは親子なんだから会えばいい、って言ってる。それに、あたしがお父さんのお金を持ってくと、いつも手を合わせてありがとうございますって言ってるよ。そうか。父はちょっとくすぐったいような顔をした。お母さんは、俺とやりなおす気はないのかな。少女は首を振った。それはダメみたい。そうか。

お母さんは誰とも会いたくないんだって。友達ともよく携帯で話してるけど、いつもケンカになっちゃって、怒鳴って切っちゃうの。それでいつも泣いてるの。

そうか。父はギョーザを一皿食べ終わり、はーっと一つため息をつくと、煙草に火をつけた。少女は咳こんだ。父はあわてて煙草を消した。煙草はだめか。ううん、ごめん。お父さんと一緒にいる頃は平気だったんだけど。そうか。

私は、お母さんのそばにいるよ。父は無言で白いご飯を食べた。味気ない感じがした。お母さん、弱い人だから、私がいないとだめなの。父は水を飲んだ。お母さんは、自分より弱いものにしか頼れないんだよ。父は箸を持つ手を止めた。

出会った頃はこんな日が 来るとは思わずにいた
making good things better 愛は消えたのよ 二度とかけて来ないで

店員も、なぜか心を打たれた。自分より弱いものにしか頼れない、か。父は水を飲み干し、お冷ください、とコップを差し出した。はい、お冷一丁。店員は冷水器の下にコップを差し出し、水を注いで父の前に出した。

お前には苦労をかけるな。父はぽつりと言った。少女はにこっとして言った。平気だよ。私、お父さんとお母さんの子だもん。

娘は結局、ラーメンを少しとギョーザをほとんど残し、ご飯だけきれいに全部食べた。それじゃ行くか。うん。

おあいそ、お願いします。はい、二千円になります。父はズボンのポケットから丸まった千円札を二枚出すと、カウンターに置いた。ごちそうさま。親子が立ちあがり、ドアを開けようとしたとき、店員が声をかけた。あの。二人が振り向いた。よかったら、傘、お持ちになりませんか。あれ、申し訳ない。店員はカウンターを出て、ビニール傘を差しだした。ありがとう。娘はにこっとした。

二人が引き戸を開けると、雨は小降りになっていて、どこからか薄日も差していた。あれ、お父さん。なんだ。虹が出てるよ。

国道沿いの大きなパチンコ屋の看板の向こうに、大きな丸い虹が、くっきりと出ていた。

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小説の旧作を公開しました。感想等いただけると幸いです。