イクスペリアの后(きさき) 1・2

     1

 沼は闇に沈んでいた。騎士スークは馬を止め、沼を眺めた。この辺境の沼には、不穏な雰囲気が充満していた。時は夕方。村人は、日が傾き始めると人々は恐れてこの沼には近づかなくなる、と言う。森の中を抜ける打ち捨てられた古い街道が、そのほとりを走っている。この街道が打ち捨てられたのも、この沼にある不穏な噂がつきまとっていたからだ。

 この沼には、竜がいる。それも、水を操る力を持つ、神竜が。古くはその神竜がこの平原の国に幸いをもたらしていたとされているのだが、時が衰えたのか、竜が老いたのか、いまはその竜がこの街道を通りかかる人間を襲うと言う、不穏な噂のみが残り、竜が目覚めると言われる夕方近くになると、元々少ない人の行き来もばったりとなくなるのだった。

 騎士スークは思った。古代の詩に歌われたこの沼は、かつては美しい湖だった。このように森はなく、湖の向こうには広く湿原が広がり、広大な湿地には美しい鳥たちが舞い降りて、まるで楽園のような光景だったと。騎士スークはその詩を読み、強くこの地に憧れていた。しかし、現実にはこのような、時の衰えた光景。チャーンの残光もかくや。出来るならばこの地を再び、美しい湖に戻すことは出来ないものか。

 騎士スークは夢想家だった。この沼を、美しい湖に戻すことなど出来るものか。誰もが騎士スークの夢を笑った。騎士スークは思った。もちろん、いまの自分には出来ない。しかし、この地を治める王国の強大な力をここに働かせることが出来れば、それは可能なのではないか。騎士スークはこの国、イクスペリアの首都・エリダの壮麗な光景を思い浮かべて、一人夢想に耽った。

 森の中から一羽の鳥が飛び立った。騎士スークは我に帰った。さすがにもうここは引き上げなければならない。今夜は村に戻り、あす再びこの街道を、目的地に向かって行くことにしよう。

 と、村の方向から馬車の音がする。こんな時間に、この沼のほとりを通るのは危険だ。騎士スークは馬を走らせ、馬車の方向に向かった。       

     2

 騎士スークが馬を走らせて行くと、向こうからやってきたのは二頭立ての馬車で、簡素だが上質の木造のキャビンは明るいブルーに塗られていた。これは貴族の馬車だ。こんな時間に一体どこへ、と思うのも束の間、沼からは突然、白い竜がその頭をもたげた。

 二頭の馬は仁王立ちになり、御者ははじき飛ばされた。キャビンも危うく倒れそうになるところ、なんとか立ち直ると、ドアからは馬車と同系統の色のドレスを着た若い貴婦人が飛び出して来た。

 危ない!竜は貴婦人に襲いかかろうとする。よく見ると、若いというよりも子どもだ。そんな子どもが何故こんな場所へ。

「サリエル!シューミック!下がれ!」

少女は脱兎のごとく駆け出すと馬車の馬を外し、裸馬にまたがると全速力で駆け出した。仰天したことに、いつの間にか右手には槍を持っている。はじき飛ばされた御者と執事らしき男はおろおろしながら、それでも馬車を守ろうとする。少女は距離を取ると再び沼に向かって全速力で馬を走らせ、「ハアッ!」と叫ぶと槍を竜に投げつけた。

すると、竜はその本性を現し、凄まじいばかりの電光を当たりに散らして、槍を跳ね返してしまった。さすがに怯んだ少女に騎士スークは駆け寄り、「お下がりください、勇ましい姫さま」と声をかけ、少女の前に立った。

「姫ではない!」少女が叫んでいる。

「どのようなご事情か存じませんが、竜はそのようなことでは退治することは出来ません。お下がりください、姫さま。」

「お前は何者じゃ」

「私はスークと申す、辺境の騎士にございます。」

「ならばスークよ、いかにしたら竜は撃退出来るのじゃ?」

「こうでございます。」

 騎士スークは、真っ直ぐに白い怒れる竜の目をみた。竜の目は濁り、その瞳からは力が失われていた。スークは語りかけた。

「神竜よ。あなたは自分がどういう存在であったのか、忘れている。あなたは気高き天の種族であり、このような場所で人を襲う下等なけだものではない。どうか神竜よ、思い出していただきたい。あなたは民の苦しみのためにここに居るのではなく、美しきこの湖の守護神としてここに居るのですから」

スークは、よく通る声で神竜を諭した。スークの声は、竜の身体にしみ込んで行くようだった。竜は電光を光らせるのをやめ、下を向き、後ろを向き、もう一度スークの方を見ると、再び沼の中に潜って行った。

「お怪我はありませんか?」

スークは姫に駆け寄った。

「大事ない。それより供のものたちじゃ。」

馭者台から弾き飛ばされた馭者は酷く腰を打っているようだったが、動けないということはないようだった。なんとか立ち上がると姫が乗っていた馬を馬車につなぎ直した。また執事らしき男は馬から下りた姫のドレスを改めていたが、スークの方を向くと言った。

「騎士スークとやら。礼を申します。」

「いや、無事で何より。それより、このような時間に何故、この危ない沼地のそばを通られた。」

 姫が答える。

「急ぎの用があったのじゃ」

「とはいえ、このような時間は竜が出ると、村でお聞きになりませなんだか」

「わらわは竜など恐れぬ。だが騎士スークとやら、お主のように竜と会話をなすものはわらわは初めて見たぞ」

「光栄でございます。私はとある特殊な事情により、竜と心を通わすことが出来るのでございます。」

「ふむ。何とも珍しい男じゃ。サリエル!男の名を記しておけ。」

「は、しかし・・・」

「このような世の中、どのような能力が生かされるか分からん。このものの力は比類なきもの。書き留めておくに値するものじゃ」

「承知致しました。」

「姫さま、これからどちらへ?わたくし、旅のものではありますが、少しはこの土地のことを知っております。ご案内も出来るかと思いますが」

「大儀である。しかし、わらわはもはや目的は達した。城に戻る。」

「は?」

「シューミック、馬車を出せ。」

「は!」

青い馬車は、きびすを返すと再び首都の方角へ向いた。

「騎士スークよ!やがて沙汰があろう!」

 窓から身を乗り出した少女はそう叫ぶと、馬車は街道を戻って行った。

「沙汰・・・?」

 馬車を見送ったスークは首をひねって少し考えたが、やがて馬を国境の方へ向けると、反対の方角に馬を向かわせた。       (以下続)

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 先日の断片を最初から書いてみることにしました。読んでいただけると嬉しいです。