一色まことさんの「ピアノの森」、最終26巻を読みました!(前半)


ピアノの森(26) (モーニング KC)
一色まこと
講談社


ついに最終巻。


表紙は、阿字野とカイの舞台衣裳姿。感慨無量です。帯には、ちばてつやさんの賛辞(一色さんはちばてつや賞出身)とともに、「ついに完結!18年間のご愛読、本当にありがとうございました。」とあります。私が読み始めたのは2008年。16巻に収録されている145話からだったと思います。よくわからないけどピアニストの話か、と思って1巻を買って読んでみたらこれがドンピシャ。もう夢中になって一気に既刊14巻まで読破しました。


しかし、14巻のラストから自分が読んだ145話までは17回分くらい空いています。どうにも落ち着かなくてネットを検索した結果、こちら の感想サイト(「見たり・読んだり・思ったり」)を見つけ、大体のストーリーを知ってようやく落ち着つくことが出来ました。それからモーニングの連載を読むとともに単行本を一冊一冊買うようになって行ったわけです。本当に、一色さんのような時に長いブランクが空く作家さんを読み始めると、感想サイトがあって良かったなあと思うことがよくあります。お世話になりました。


それからでも、もう7年も経ったのですね。145話はショパコン1次の結果発表の回ですから、2次、ファイナル、結果が出て、そしてその後、までで7年の時が流れたわけです。


私は普段、モーニングはDモーニングで、つまりデジタルでiPadAirで読んでますが、「ピアノの森」の掲載回だけは紙の雑誌も買っていて、何度も読み返しています。ショパコン優勝の25巻が出たのが昨年の10月です。未収録の部分も読みたいので、その部分が掲載された単行本が出るまでは雑誌も保存しています。今私の本棚には2014年47号から掲載週の9冊が残っています。


25巻が出た時点では、ショパコンで優勝したものの、まだ回収されていない伏線はけっこうありました。しかしそんな偉業を成し遂げてしまうと、小林よしのりさんの「東大一直線・東大快進撃」でついに東大透が東大に合格してしまったようなものですから、その先一体何を書くことが残っているんだろうとも思ってしまっていました。


実際、昨年の47号に掲載されてから次に掲載されたのは今年のお盆進行の36・37合併号。このときの表紙で「完結まで毎号掲載」とされ、楽しみにしていましたが、6号連続で掲載されたあと、1週飛び、5週飛びとなって49号で超増量56ページ一挙掲載でフィナーレを迎えました。やはり難産だったのだろうなと思います。


ただ、それでも最後に芯がばしっと通った、名作として(もう超名作と言って良いと思います)完結することが出来たのは、この「ピアノの森」が、阿字野とカイの師弟関係の話だ、ということがきちんと再定義され直したからではないかと思いました。


私がこの作品を最初に読んだ感想は、やはり一ノ瀬カイという天才ピアニストの自由奔放な開花の物語、というところが強く、自己確信に満ちた子ども時代のカイの言動は、随所で痺れさせられました。そしてもう一つの柱は、秀才型の雨宮修平とのライバル関係。雨宮がどうしても越えられない、「自分のピアノを弾く」というテーマについての苦闘も、本当に大きな柱の一つでした。ショパコン編に入っても、やはり阿字野の教えというよりもカイの才能のきらめきの方にどうしても目を奪われて、また、修平が開花し、そして挫折し、カイと対立し、また和解する、そのドラマの中で、阿字野はバックアップする存在、という感じでずっと来ていました。


もちろん第1巻から続く、阿字野の挫折とカイを見いだしたことによる阿字野自身の「生」の復活、カイを世に送り出すことこそが自分の生きる意味、という確信は、バックグラウンドとして重要なものではありましたが、やはりそれはまあ言えば「地」の部分で、天国への階段を駆け上がって行くカイの姿こそが描かれるべきものだと暗黙のうちに思っていたわけです。


そしてついに、カイは頂点に達した。現実の世界で、まだ日本人の誰もショパコンを制した人はいないわけですから、これを頂点と言わずして何を頂点と言うか、という感じですよね。


ですから、音楽で言えば26巻はコーダになる。そのコーダをどう描くかによって、物語全体の性格が最後に決まることになる。私はカイの物語として「ピアノの森」を読んで来たので、この先はちょっと蛇足なんじゃないかと思っていた部分もありました。


しかし、そうではなかった。


この物語はカイの成長物語であるのと同じくらいの強さで、また修平とのライバル関係と友情と同じくらいの強さで、阿字野の回復の物語でもあった。そして、そのキーワードは、「師弟関係」なんですね。


7巻末の58話で子どものカイは阿字野に言います。「俺はどこにも行かない!外国になんて留学する必要もない!俺は阿字野にピアノを教えてくれって行ってるんだぜ!阿字野先生に!!先生は・・・俺の先生はここにいるじゃないか!!日本にいるじゃないか!」


そして正座して阿字野に言います。「先生!俺にピアノを教えて下さい。俺はレイちゃんどころか森の端の全員を食べさせて行くだけのピアノ弾きにならなきゃいけないんだ。だから・・・俺にピアノを教えて下さい。」と。


一人で勝手に森のピアノを弾いていた第1巻から、7巻かけて成立した師弟関係。阿字野は「どうやら腹をくくらなければならないのは私の方かもしれない。何故私は死ねなかったのかと自分自身を呪ったこともあったが、きっと、こいつを輝く世界に送り出すために生き残ったのかもしれない」と思うのですね。


ここは今でも読み返すたびに泣けるところです。


そのあとのカイの成長は、何というか神がかっていて、一人でどんどん進んで行くような印象が強かった(いや、本当はカイは阿字野の教えを本当に忠実に守っているのですが)ので、この場面の意味がどちらかと言うと薄れていた印象がありました。


しかし、最終26巻、長い休載あけの234話で、ついに阿字野の手の手術をする「ミュージシャン・ハンド・ドクター」が現れます。ここから一気に阿字野の回復の物語になり、そしてそれを、カイが全力でサポートして行く話になるのですね。


以下、26巻の内容に触れながら感想を述べます。もう単行本として発売されているので、先に筋を知ってから読みたいというタイプの方でなければ、先に単行本をお読みいただいた方がより感想も共感していただけるのではないかと思いますので、よろしくお願いします。


この26巻掲載分は、連載のときは少し筋が飛んでるところがある、という印象がありました。編集者のスルギさんの12月20日のツイートによれば、この単行本では連載時に比べて30ページほどの加筆があるということで、凄く楽しみにしていました。実際読んでみると、物語の流れが凄くスムースになり、大変読みやすくなったと思います。


物語の流れと、加筆・修正部分についても気づいたところは書いて行きたいと思います。


233話は優勝発表場面から審査の場面の回想。ここでは中国人のコンさんが関わるシーンで色々とセリフや絵の差し替えがあります。


中国人のコンさんは最大のスポンサー国であると言う金の力を背景に、コンクールの結果にまで介入する気満々だったのですね。ところがそれをパンウェイにキツく止められて、介入出来なくなり、結果パンウェイを優勝させられず、みすみすカイを優勝させてしまったわけです。そんなコンさんの心の動きがクローズアップされています。


10-11ページ目、コンさんが「な、なんといまいましい・・・パン・ウェイめどうしてくれよう」というセリフが「な・・何を笑ってるんだ!!なんといまいましい」に変わっています。12ページ目でコンさんと部下との立ち位置が変わって、連載ではその場を去るような感じになっていたのが、階段の上から熱狂を見続けている感じになっています。22ページ目で審査場面から去る時に回想していたのを、会場の熱狂を見ながら回想しているように変えて、時の流れ的にわかりやすくなっていると思います。


そのあと、パンウェイのことを「バクダン野郎が・・・」と言っていたのが「パンウェイめ・・・」に変わっているのもありますが、最も重要な変化は24ページ目で「誰が逃げ回るか。はてさてパンウェイをどうしてくれよう」とこれから何が起こるのか、という感じだったのが、「もう少しだったのに・・・いくらかかったと思ってるんだ。一生後悔しろ!」とこの件はこれで終わり、という感じに変わっているところでしょうね。この「中国問題」の伏線は、もうこれで回収した、という感じになりました。


次の、長期連載中断後に再開された234話は、阿字野が日本にいるレイコ(カイのお母さん。でもまだ30そこそこです)にカイの優勝を報告するところから。そしてカイと阿字野に対する報道陣のインタビュー。それから、カイを優勝させたことに対する審査員のピオトロさんとブゼク会長との電話のやり取り。ブゼク会長が決勝を聴いてないというのが何だか不思議だなとは思っていたのですが、それは変わっていませんでした。まあ、ストーリー的にそれは無理ですよね。それから続いて翌日の授賞式。ここで大幅加筆がありました。


ブゼク会長の挨拶のあと、授賞式の場面が6ページ加筆されます。まず聴衆賞の授賞式があり、それはアダムスキに決まります。これはある種の贖罪ですよね。ああ、こういう形で収まりを付けたのかとちょっと驚きました。それから入賞を逃したファイナリストたちの表彰があり、続いて、ダニエル・ハントの婚約者が会場からスケッチブックに「Will you marry me?」のメッセージ。これはほのぼのしました。全体に、めでたしめでたしの感があります。


それから連載時にあった入賞者の表彰式がソフィー・オルメッソンから。審査員ピオトロさんのナレーションが少し変化を付けられて入っています。2コマ目に「名のあるコンクールでも・・・」だったのが、1コマ目に「どれほどコンクールが成功しようと」とはいり、2コマ目に「どれほど名のあるコンクールだとしても」と入っています。これはピオトロさんの、この大会で活躍したコンテスタントたちには、ショパンコンクールがこれからも輝くように、世界で活躍してほしい、という願いが述べられているわけですね。


そして最後に、修平の後ろに仲尾がいることがわかる、という場面で234話は終わっています。一番大きいのは、あれだけ「ポーランドのショパン」にこだわり、シマノフスキ優勝のためには一番目障りになるとカイを敵視していたピオトロさんが、最後にはカイの優勝を会長を全力で説得するところまでになっているところで、いいヤツだなと思います。このあたりは、ちょっとファンタジーっぽい気もしなくはないですけどね。


235話はガラコンサートを背景に、ドクター仲尾の出現に動揺した修平が、カイに聴いた「ショパンコンクールで優勝したら」阿字野の手術が出来る、ということを思って演奏に集中出来ないということ、それからカイの腕を疑うブゼク会長がマズルカに感動してしまう、ということが描かれています。


その中でも気をもむ修平がパンウェイの演奏するカンパネラを聴いて、1年前にカイの演奏したラ・カンパネラを思い出し、落ち着く、という場面が良いです。そして「こんな凄いことが出来たんだから、きっとうまくいく」と思う。うまくいかない、というフラグを立てるのはともかく、うまくいく、というフラグを立てるのは結構難しいですよね。でもそれが凄く自然に導き出されていて、ここはいいなと思いました。


連載との相違では、最後から二ページ目の会話で観衆が「明日はパンとイチノセ協奏曲やるって」「ウソ!!明日のチケットどうやったら手に入るの?」になっていたのが「明日はイチノセの協奏曲1番で、明後日はパンがなんと2番弾くんですって!」に変わって、あとへの進行がスムーズになっていました。


236話は医者の仲尾と梨本がカイより先に阿字野を捕まえて、手術の話をします。自分の手術とは夢にも思わないで、「カイの将来に関わること」と言われた阿字野は気が気でないのですが、ついにその手術がカイのことではなく、阿字野自身のことであったことが明かされ、驚いた時にカイが到着します。


連載時との異動は、12ページ目で誰かがパンに「明日の君のコンチェルト2番がもう今から楽しみなんだよ」と話しかける言葉が「明後日の」に変わっている、のがひとつ。それから仲尾と阿字野の会話で「治せると判断したからここまで会いに来られたんですよね?」「それはもちろんですが・・一番の理由は彼のピアノを生で聴くためですよ」というのんきな発言を聴いて阿字野が憮然とし、でも「それならいい・・・治るのであればそれで・・・」と思う場面が、「治せる可能性を感じたからここまで会いに来られたんですよね?」「それはもちろんですが・・・直に見てみないことには何とも言えません」という医者らしい発言になり、阿字野も「ともかく一刻も早くカイの手を診てもらわないと・・・」とより心配になる、という場面に変わっています。


阿字野が「コイツは最低の医者だ!」と思ってますが、まあ確かに、ちょっとどうかとは思いますね。(笑)一色先生、医者に何かと恨みがある?のかなと何となく感じてしまいましたが。


またそのあとの仲尾のセリフで「とにかく今の状態を診ないことには・・・」が「とにかく今の状態がどうなっているのか・・・」に変わっているコマが。しかし一番大きいのは、この話は阿字野自身の25年前の事故で動かなくなった手の手術だ、と思いがけないことを言われた阿字野は、心底動揺してしまうことですね。カイを迎えるときのキリッとした表情が、逆にその動揺の大きさを感じさせます。


阿字野にとって、「ピアノを弾けなくなったこと」がどれだけ大きなことだったか。身体を張ってカイを守り続け、育て続けた阿字野ですが、その部分に来ると、やはりとてもナイーブなのですね。


そして237話。阿字野は、心を閉ざしてしまう。そりゃそうですよね。あの25年前の事故を思いがけず追体験してしまうことになったわけですから。ここで回想シーンになりますが、カイと阿字野の会話がいいです。


いつからそんなことを考えていたんだ、と阿字野に聞かれたカイは、ジャン(=ジャック・セロー)のリサイタルの時だと答えます。12巻99話でジャンと再会した阿字野は、初めてカイと二人でそのリサイタルを聴きに行く。その席で、カイはとなりに座っている阿字野が指を無意識に動かしているのを見て、「阿字野の指が自分でピアノを弾きたがっている」と思うのですね。これも胸を締め付けられるような場面ですが、ついにその話が出て来て、カイの思いが阿字野に伝えられ、何だかここはホッとしました。


回想から戻り、コンチネンタルホテルにかかったカイのポスターを見ている阿字野の横にセローが来て、医者の話になり、ジャンが「あの条件だろ。サイテーだね」というところが、「あれは酷いよね」に変わって、ちょっとやわらかくなっています。次のページが「だからこそ許せない」という阿字野のセリフが「だからこそ腹が立つ!」に変わり、ここから2ページほど新たなページが挿入されています。


この場面では、阿字野の指が治る、と聞いて天にも昇る気持ちだった、というセローに対し、阿字野は「まさか・・思っても見ませんでしたよ。全力で・・あきらめたことですから」と答えるのですね。


この言葉は本当に重い。本当に重いし、この「全力であきらめた」という言葉が書けるのが凄いなと思いました。「医学の進歩を考えられなかった自分を呪った、それを思いつくカイは本当に凄い子だ、だからもう許してやってほしい」というセローに、阿字野は「許すも許さないもないですよ」と笑い、「一番許せないのは自分自身です」という言葉につながります。阿字野は、自分がカイを守って来たつもりだったのに、カイが一番大事な時に自分のことを心配させていた、ということで激しく自分を責めるのですね。


そしてはじまるガラコンサート。コンチェルトの1番を聴く中で、阿字野の回想。またカイとの会話です。

どうしてカイのピアニストとしてのこれからに、私が復活することが不可欠なんだ?と問う阿字野に、カイは、もう阿字野は先生でなくても良い、阿字野はもう自由だよ、といいつつ、阿字野には先生じゃなくて、「俺の生涯のライバルになってもらうって決めた」、と言います。瞠目する阿字野に対し、「あの凄かった阿字野の映像を越えることを俺は生涯の目標にしようと思った。でも気づいたんだよ。ホントはあのピアノにはその先があったことを。だったら聴きたいと思った。俺はどうしてもその音が聴きたいんだ」と言います。


阿字野の映像とは、そのあと何度も出てきますが、初出は9巻69話、スランプに陥った修平が持って来た阿字野の過去の、全盛時代の映像ですね。このあたりでは、この物語は天才・カイと秀才・修平のライバル物語という感じになってました。そしてこの言葉の場面で2ページが追加され、カイの演奏と阿字野の映像が並べられることで、「ライバル」という言葉に現実味を持たせているのだなと思いました。


そしてここが凄くいいと思ったのが、「ここまで成功したカイがこんな終わったヤツまで担ぎ出さなきゃやっていけない道理がどこにあるんだ」と思う阿字野に、アンコールで裸足になって「茶色の小ビン」を弾くところです。


実は私、連載でこの場面を読むまで、「茶色の小ビン」という作品は、阿字野が作曲したものだとばかり思っていました。これは19世紀アメリカで作曲され、ジャズのスタンダードナンバーにもなった、非常にポピュラーな曲なのですね。YouTubeで聴いてみて分かりましたが、もちろん私も聴いたことがありました。


しかし、この1巻最初に出てくる阿字野のアレンジのこの曲は、阿字野が初めてカイが森のピアノで弾くのを聞いた曲であり、「一緒にピアノをやらないか」と誘った、その曲でもあったわけです。この曲を聴いて、阿字野のかたくなだった心も溶ける。26巻全体の転換になるエピソードでした。


そして3ページの挿入。カイと修平、それに光正がワルシャワの広場を歩く場面、これでちょっと微妙だった修平と光正の仲も何とかなったかな、と思わせますし、次のページでは向井くんと調律師になると聞いて怒ってしまった彼女がツーショットで写真を撮ってて、ここも何とかなったのかな、と思わせたりします。丁寧にひとつひとつ、伏線を収めて行っている感じです。


全体に波の立たない、嵐のあとの凄く穏やかな湖のような、そんな感じがする26巻です。


さて、随分長くなってしまいました。まだまだ書きたいことがありますが、この辺りで一度区切りを付け、続きはまた改めて感想を書きたいと思います。