聲の形(7) (講談社コミックス)
大今良時
講談社


大今良時さんの『聲の形』7巻を読みました。

最後の2回は『少年マガジン』で読んでいましたので、ラストがどうなるかは知っていたのですが、それまでの過程については初めて読んで、いろいろと強く印象に残りました。

何というか、論理的にいろいろな感想がまとまってはいないのですが、思ったことを書いてみたいと思います。

読み終わった時、なぜか「生きててよかった」と思いましたし、また「これからも生きてていいんだ」という気がしました。なんとなく元気がなくても、これを読むと元気が出てくる、そんな作品だと思いました。

こういう本と言うのは、一生にそう何度も出会えるものではないかもしれません。一期一会、という言葉がありますが、ちょっとそういう気がしましたし、この作品がこの世界にあるということが、ちょっと奇蹟に近い気がします。

読み終えたのは昨日なのですが、それからふわりふわりといろいろな言葉が浮かんできて、それが本当にそのときにしか出て来ないような言葉だと思ったのですが、それを書き留めようとすると淡雪のように形を失ってしまう、そんな言葉たち、思いたちだと思ったのです。

凄くディテールなのですが、結弦に将也が勉強を教える場面、まず最初に自分でやってみようか、と言っていて、何というか作者さんはきっと教えるのが上手い人に勉強を教えてもらったことがあるんだろうな、という気がしました。

それからこれもディテールっぽいのですが、この物語が展開する舞台である『水門市』というのが、わたしは東京近郊だと思っていたのですね。わたしの感覚からしたら都会っぽいですしね。しかし、7巻で「東京の理容学校へ行く」という硝子に、将也は「東京は怖いところだから」みたいなことを言って反対するので、あれ?と思ったのです。

そこでWikipediaを調べてみると、作者の大今さんは岐阜県の大垣市の出身なのですね。大垣市は揖斐川・長良川水系の中にあって、水郷とも呼べるような、川の多い都市なのだそうです。

そうか、なるほど。大垣なら名古屋から30分くらいで、都会っぽさも田舎っぽさも両方ある、そういう街がきっと舞台なんだろうな、と思いました。作中に出て来る他の地名も大垣市にゆかりの地名があり、大垣だと考えるといろいろ腑に落ちるところがあるなと思いました。マンガですからどうしてもことばは標準語になりますし、それで東京近郊だと思ったんだなと思いました。

6巻の最初で自殺を図った硝子を救ってかわりに自分が川に転落し、意識不明になった将也。6巻はそういう意味でずっと主人公不在で、最後の場面で意識を取り戻しました。

その間、将也の小学校時代の同級生でどちらかと言うと優等生タイプの調子よさをもった川井という女の子がいるのですが、この子は何というか自分はいい子になろうとする本能のようなものをもっていて、いつでも周りの空気を読んで一番自分がいいポジションをしめる感じがあります。その川井が将也のために千羽鶴を折ろう、とクラスで呼びかけたのですが、クラスで浮いていた将也のために協力しようという生徒はあまり現れず、結局千羽は折れずに、そういう意味で川井としては凄く挫折を感じることになったわけです。

空気のように漂いながら一番美味しい位置を占めてきた川井が、誰に何といわれようと自分が正しいと思うこと、そしてやりたいと思うこと、そして書きたいと思うこと(永束君の映画の脚本を書いたのは川井さんなんですね)を書くようになって行く、その過程がとてもいいなあと思いました。

この川井というキャラは読者さんの間では凄く評判が悪いらしいのですが、まあそれはよくわかります。普通にイヤな奴だなという感じではありますからね。でも大今さんはこのキャラが結構好きだ、ということを言っていますし、実際愛情を持って描いていると思います。

まあなんというか、5巻までは主人公将也の挫折物語という感があったのですが、6巻7巻に来て主な登場人物たち、将也の高校での最初の友達である永束君が撮った自主制作の映画に関わった、将也の高校の同級生と小学校時代の同級生たちのそれぞれが、大なり小なり挫折を経験していき、そしてそれをお互いに叱咤しながら乗り越えて行く、その感じがすごくリアルで生き生きとしていて、また溌剌としていて、凄く良かったです。

そのことを言った象徴的なセリフが、将也の、一番仲のよかったつもりの奴らが、一転して一番わからない存在になってしまって、何があるかわからないなあと思った。「でも今では、そんなのいつでも覆せるような気がするんだ」という言葉でした。

何というか、この作品の特徴を一言でいうと、「成長痛」ということだな、と思ったり。(笑)

永束君の映画、将也をめぐる登場人物たちにとってはとても大事な、すばらしい映画として出来上がったのに、糞みたいな評論家にひどい評価をされてみんなぼろぼろになってしまうわけですね。でもそれを、「俺達はまだ本気を出してなかった!」と言って跳ね返す、そのパワーが良かった。

実際、わたしは5巻まで読んだ時点では、永束君の映画が完成するとは夢にも思っていませんでした。(笑)

でもそうやってで来た珠玉のような映画を、糞みたいな評論家が一面的な評価でぶった切る。この容赦のなさが凄いのですが、でも将也の事故を乗り越えて行く過程で、彼らはどれだけ成長したのか、それがわかるという感じなのです。

実際、このマンガのひとつの特徴は「容赦のなさ」ですよね。『進撃の巨人』の人食い巨人の容赦のなさもすごいですが、このマンガの耳の聞こえない硝子に対する「いじめ」の徹底ぶり、そしてそれが180度転換して将也自身がいじめの対象になる荒れ方、そしてそれを我関せずと放置する担任教師のひどさ、周りの人間を完全に否定している中学時代の将也の姿、どれもこれも容赦なく徹底させています。

そういう意味で読んでいて大変辛いのですが、でも7巻に来てこの評論家の馬鹿げた断罪ぶりを読んでいると、このキャラクターには糞であることに凄く意味があるんだなと思えてきたのです。教師の非道ぶりにも、小学生時代の将也のいじめを止めることが出来ないエスカレートぶりにも、それぞれみんな意味がある。それぞれみんな存在する意味がある、と思えて来るのです。なぜならそれが、生きるということだから。

ダメなあり方を、そのダメダメぶりをいとおしく書いた作品、というのはよくありますが、人間の持つ『ひどさ』みたいなものに対して、これだけ愛情を持って描いた作品というのは、初めて読んだ気がします。

ダメっぷりに対して「ダメでもいいじゃない。にんげんだもの」みたいな感じの作品はちょっと「ケッ」と思うところがありましたが、「ひどくてもいいじゃない。人間だもの」になるとその描写の容赦のなさに笑ってしまわざるを得ません。全然ギャグじゃないのに、本質的に人間の可笑しさみたいなものが描かれているんですよね。

何というか、まだ十分に、この作品の素晴らしさを表現する言葉が出てきていない気がします。

今回はあらすじの説明抜きでの感想になったため、わかりにくいかもしれませんが、ぜひ作品自体を読んでいただければと思います!