月刊!スピリッツ 2014年 10/1号 [雑誌]
小学館


月刊スピリッツ10月号で松田奈緒子さんの『重版出来!』第24話「I’M HERE!」を読みました!

松田奈緒子さんの「重版出来!」、最初は単行本派だったのですが、最近はめっきり連載を追いかけるようになってしまいました。しかしそのために、例によって3巻が出たあとの展開が完全には追いつけていないので、4巻が出るのが待ち遠しいです。その4巻も9月30日発売ということで、あとひと月の我慢、という感じになってきました。

今回は、前回の御蔵山先生のチーフアシスタント、沼田の話の続きです。沼田が才能を嫉妬している、でも絵が下手な新人の中田伯は、沼田の過去のネーム(作品の下書き)を読んで泣き出してしまいます。他のアシスタントは狐につままれたような顔をしてそれを見ているのですが、沼田はそれを見てショックを受けています。

これは沼田の好きな落語をヒントにした「身代わりもの」の作品でした。人間嫌いのマッドサイエンティストっぽい博士が、自分の研究に没頭する為に、自分と全く同じ知性を持ち姿形も同じ生体アンドロイドを造り、研究を倍のスピードで進めようとしますが、そのアンドロイドは娘と恋に落ちてしまい、研究の能率が下がってしまいます。で、博士は生体IDを自分のものとアンドロイドとを入れ替えて、アンドロイドに本物の博士であると信じさせ、自分はアンドロイドとしてさらに研究に没頭しようとする、というストーリーなのですね。

どこに感動したのか分からない、という他のアシスタントに伯は、生体IDまで入れ替えてしまったすべてが同じ博士とアンドロイドは、果たして誰なのか、「いったい自分は誰なんだ」と思わせるところがすごい、と言います。

実は、沼田が描きたかったのはまさにそこだったのですが、アシスタントにピンとこなかったようにそれを見せた編集者にも理解されなくて、「この編集者はちょっと鈍いのかもしれない」と思って作品化せず放り出してしまっていたわけです。沼田が驚いたのは、まさに伯がそれを一読で読み取ったこと。同じ作品を読んでもより多くより深く読み取ってしまう、その才能の恐るべき深さに震えすら感じたのでした。「一体…どれだけの作家になるのかーーー」と。

そして沼田は、伯にあったことによって、自分がごまかしてきたことに気がついてしまったのです。自分はプロになるのが怖かった。でも御蔵山のアシスタントであれば、「夢を持った特別な人」でいられた、そんなふうにしてなんとしてでもプロになろうとする勇気も、ある意味安定したプロのアシスタントになる勇気も、諦めて地元に帰る勇気も、自分の気持ちを正面から見つめる勇気もなかったことに気がついてしまったのでした。

正直言ってここまでのところ、このネームで中田が読み取ったような内容には、ほとんどピンと来ませんでした。説明されればそういうことか、と分かりますが、私がこのネームを読んでも(というか実際には存在しないわけですけどね。存在しないネームをつくるってすごい話だなと思うのですけれども)おそらくは何が言いたいのか分からない、と思っただろうなあと思います。私などは言いたい部分がごちゃごちゃしている、という印象を受けましたし。(そういうネームをつくる、ってなんかすごいです。このネームのラフな線もなんというか沼田と言う人の個性が表れている感じがしますし、マンガ家と編集者を扱ったマンガって、そういう意味ですごくメタな部分が出て来るから、上手く行っているのか行ってないのかも分からない、的な感じが出てきて、その振り回され具合が面白い!という妙な感じになってしまいます。)

でもなんというか、本物の才能を持った若手であることを、誰よりも感じ取る能力がある、という話はモーツァルトとサリエリみたいなものですし、ある意味他のアシスタントたちよりも沼田には才能があったはずだ、とは思うのでした。

場面は変わり、主な舞台である興都館出版社のバイブス編集部。主人公の編集者・黒沢心は新人の東江絹(あがりえ・きぬ)とばったり会います。単行本カバーや宣伝物のことで担当編集者の安井に呼ばれた、と東江は言います。東江には最初、心が担当としてついていたのですが、ラノベのコミカライズに絵の達者な東江を、と狙った安井に攫われてしまったのですね。東江もじっくり新人を育てようとするタイプの黒沢に焦りを感じ、手っ取り早くデビューさせてくれる安井を取ってしまったのですが、作家を使い捨てるタイプの安井に東江はさんざん痛めつけられてきていたのでした。

今回も安井の元に行くと、単行本カバーは結局コミカライズと同時に進められていた映画のワンシーンが表紙にされてしまい、なんと東江の絵は帯に丸く小さなカットが入れられているのみ。「きっと私の存在価値もこれくらいなんですね」と肩を落とす東江に安井は、「当たり前でしょ?君のオリジナル作品じゃないんだし、映画の宣伝物の一つに過ぎないよ。今気づいたの?」とかなり酷い追い打ちをかけます。

あとは全部お任せします、と言って席を立った東江。声をかけた心にも答えず、泣いたまま編集部をあとにします。心は安井の手元にあるカバーを見て、初単行本に自分の絵が使われなかった東絵の傷心を思うのでした。

先輩編集者・五百旗頭の担当する新人・大塚は初単行本に重版がかかり、連載化が進んでいますし、心の担当している中田伯はキャラクター表を描いて、心と展開について話し合っています。そんなふうに順調に進む作家もあれば、東江のようになかなか上手く行かない作家もある。飲みに行って二人はそんな話をするのですが、五百旗頭は新人作家と編集者は運と縁とタイミング、100人いれば100通りの方法論がある、と言います。

心は、東江が安井と組んで本当に辛いのではないか、というと、五百旗頭は「どんなに辛くても自分で乗り越えなきゃいけないんだよ。そうやって作家性が磨かれるのだし、あんまり過保護にすると伸びしろがなくなる」と言います。どういう作家になってほしいかと聞かれて五百旗頭は、担当が変わっても雑誌を移ってもどこまでも一人で泳いで行ける作家、と答えます。

これは多分、アメリカなど外国では当たり前のことですし、一般の読者も普通そういうものだと思っていると思います。しかし実際には、日本の場合はマンガ家にしても小説家にしても編集者との協力関係や指導する・されるの関係があることが多いわけですね。マンガ家はフリーランスですし編集者は通常社員。特に、メジャーな雑誌に掲載されている作品は、メジャーな出版社の高給取りの社員な訳ですから、新人作家と編集者では編集者のほうが立場が強いのが通常なわけです。

この辺り、私も編集者と組んで仕事をしたことがあるわけではないので、良くは分かりませんし、またそういうシステム自体にも長所と短所があるだろうなと思います。しかしそこに、日本的な作品制作の大きな特徴があると思いますし、日本のマンガが粒の揃ったコンテンツを安定的に生み出しているのはそういうことが大きいだろうなと思います。作家というものは、特に新人はなかなか自分の作品を客観的に見ることは難しいですし、あまりそうしようとしすぎると自分の想像力を縛ってしまってなんだかぎこちない作品になってしまう傾向はあると思います。そういう意味では、最初からお目付役と二人三脚という方法はある意味優れたやり方なんだろうなと思います。

江戸幕府の行政では奉行(担当者)と目付(監視役)が二人で行動するということは普通のことで、外国と折衝に当たったときに相手国の担当者が驚いたという話がありますけれども、すでに江戸時代からそういうやり方が始まっていたんだな、という感じがします。どこまでも一人で泳いで行ける、というのは当たり前のようでいて、日本的システムの中では一つの「絵に描いた餅」でもあるわけで、この作品はそのメタ的な部分をそんなに正面から批評・批判していないのはまあ編集者が主人公だからだと思いますが、マンガ家さん個人としてはいろいろ思うことはあるんじゃないかな、という気がしました。

場面は変わって御蔵山邸。沼田は結局アシスタントをやめて実家の酒屋を継ぐことになります。玄関で去って行く沼田に、忘れ物らしき袋があり、中田伯がそれを持って追いかけます。すると、袋の中に入っていたのは沼田の過去の原稿とiPodに入った何百という落語で、中田に持っていてほしいからわたすつもりだったものだ、と言います。

あのネームを原稿にしないんですか、と聞く伯に、もう全部終わったんだ、という沼田。マンガやめるんですか、と聞く伯に、「お前が泣いてくれたから、もういいかなって」という沼田。ここは感動しました。

「お前のネームノートにインクぶちまけたの俺だよ」と告白する沼田に、「わからないか?」と聞かれて「絵が下手でムカついた?」と答える伯。「分かんないか!お前はすげえな!」という沼田は、「俺の分も頑張ってくれ」と言いますが、伯は「無理です。僕は僕です。他人にはなれません」と答えます。「I’M HERE!」なんですね。そして沼田には、それができなかった。

去って行く沼田は、新宿発の高速バスに乗って、10年間を回想します。「どんな時でもマンガのことだけ考えてきた。現実なんていらなかった。マンガの中だけで生きていきたかったんだ。」と。夢の終わりというのはそんなものかもしれませんし、初めてちゃんと自分の作品を中田に読んでもらえたことによって、ようやく「漫画が完成し」、沼田にも区切りがついたのですね。(これはラストのページのアオリの引用ですが、見事です)

編集的な頭と作家的な頭、というのは常に両方必要なのですけれども、やはり人はどちらかに偏りがちなんだなと思います。そしてそれを偏らせることで助け合い、良い作品を生み出して行くのが日本的なやり方で、「自分の足で歩く」ことができる作家でないと生きていけない、そういう強さがあるのが世界の一般的なやり方なんだろうと思います。

今回も本当にいろいろと考えさせられる作品でした。