五色の舟 (ビームコミックス)/KADOKAWA/エンターブレイン
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近藤ようこさんの『五色の舟』を読みました。


これはまるで「悪夢」のような作品でした。読み終えた後、少し横になってまどろんでいたのですが、文字通りこのマンガの場面が思い浮かんで、うなされた感じでした。


小さな船を住処にして移動生活を送るのは、旅役者のもと花形女形の雪之助を中心とした5人。雪之助を「お父さん」と呼ぶ、5人の疑似家族です。雪之助は、脱疽という病で両脚を切断し、自分では動けない身体になっています。そのほかにも、年をとっても成長しないが怪力の持ち主の昭助、二人が一つの腰から下を共有した姿で生まれ、片方が死んでしまったがそのままの形で成長し、喋ることのできない桜、そして主人公の、腕がなくて(肩から指だけ生えている)足で器用に絵を描くけれども口がきけない(人の心を読んで理解することはできる)和郎、そして膝の関節が前後逆についている「牛女」の清子、という5人で、家族のように「見世物一座」を続けているのです。時代は戦時中、官憲の目こぼしを受けながら、西日本を流して歩きます。


彼らは「件(くだん)」と呼ばれる牛と人のあいの子を、一座に加えようと岩国へ交渉へ行きます。この「件」は人の未来を予言するというのです。一度この件と目が合った和郎と桜は、舟からお父さんや昭助が出て行ってしまい、別のお父さんが返ってくる、という夢を見ます。件に会うことで、お父さんたちがいなくなってしまうという思いに、和郎と桜は苛まれるのでした。


結局、一家は陸軍が極秘にしている件に会いに行くことになります。実は件は、未来を予言するだけでなく、「別の世界」に人を連れていく力を持っていたのです。たとえば、日本が負けなかった世界に。広島に原爆が落ちなかった世界に。そして、雪之助が踊ることができ、和郎が学校に行くことができる世界に。

和郎は、みながその力でどこかへ行ってしまうと思いおびえたのですが、意外なことに件の力でほかの世界に行くことになったのは、和郎と桜なのでした。


この話は、津原泰水さんの小説を原作にしたものです。こうした見世物にされる奇形の人々を描くには、確かに近藤さんの絵はうってつけだと思いました。なぜなのかわかりませんが、近藤さん以上にこの詩情溢れる人たちを描ききることのできるマンガ家さんはいないように思います。


牛女、というのは私は知りませんでしたが、そのほかはそれぞれ「出典」があります。雪之助は幕末の大歌舞伎の名女形でやはり脱疽で両脚を失いながら、義足で芝居を続けた三代目澤村田之助。通称「脱疽の田之助」です。桜は、ベトナム戦争で催奇性を持つ枯葉剤を母親が浴びたために腰から下がつながってしまったベトちゃんドクちゃんの兄弟。和郎は1960年代、サリドマイドの影響で腕が伸びず、短い腕になる奇形の人が日本でも1000人以上生まれたことがありました。


昭助はいわゆる「小人」ですが、そのような小人たちが出てくるアメリカの映画に『フリークス』というものがありました。私は『フリークス』を見たときも白昼夢に悪夢をみた覚えがありますが、「健康ないし健常」だと自分のことを思いこんでいる人間にとって、その存在に根本的な不安を呼び起こすものが、こうした話にはあるのだろうと思います。

実際、自分の不安の共感する点が、異形なものを見つめてまんじりともしない一般の人々の感じている不安にあるのか、それともこの一座の人々の、この世に生きることへの何ともいえない辛さにあるのか、そして自分の不具を売り物にし、時には人前で交わって見せることまでして生活の費を稼ぐことまでするという悲惨さ、あるいは逞しさにあるのか、も読んでいるうちにわからなくなってきます。おそらくは、そのすべてにシンクロしているのでしょう。


小さいころに見た悪夢、柱に人面疽が出来てこちらに話しかけてきたり、身近な人の首が突然切れてしまったり、自分の性器が取り外されたり(またつけられるというような設定だった覚えがありますが)するという悪夢を、思い出させるものがありました。


そして、このどうしようもない世界から抜け出したい、自分の願いがかなう世界に行きたいという思いは、こんな見世物小屋で生きる人たちだけでなく、かなり多くの人たちにあるでしょう。ふつうそんなことは思っても見ないわけですが、このような哀しい話を読んでいると隠れていたそんな思いも掘り起こされてしまうような気がします。


「普通の人間」として暮らすことができるようになった向こうの世界へ行って、和郎と桜は見た目には幸せな暮らしをしているのですが、でも本当に懐かしんでいるのは、あの悲惨な世界、五色の襤褸に飾られた、あの船の中での五人の生活なのでした。


今では乙武さんのように、不自由な体でもいわゆる健常者よりもはるかに立派に活躍されている人もいます。そんなふうに時代は変わってきているのだなと思います。


しかし、和郎たちは不幸だったのか。和郎が「舟に乗ってしまう」お父さんを引き留めるために、自分の肩が露わになるのもかまわずに走り続けていく場面があります。周りの人々が驚き、顔をそむけ、顔を覆っている中、和郎はむしろ誇らしい気持ちになります。みんながぼくに眼をとめているのは、僕が特別な子どもだからで、特別な子どもが、特別なお父さんのために走っているからだと。


人が生きるとはどういうことなのか、幸福とは本当は何なのか、何が本当の人間なのか、そんなことを考えさせられる作品でした。