ピアノの森 1 (モーニングKC (1429))/講談社

¥550
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先ほど、「ピアノの森」の感想を書きましたが、そのあと連載誌モーニングの単行本になっていない部分を読み返しました。一番古いのは昨年の18号、4月4日発売の号です。カイの演奏の途中、照明が落ちてしまったくだりから。オーケストラは動揺したが、カイは全く動揺せず、オーケストラも聴衆もカイのピアノに引っ張られて立ち直ります。真っ暗な森の中でピアノを弾いていたカイにとっては、そんなことは当たり前のことだ、とでも言うように。

森の中でいろいろなものとコミュニケーションをとりながらピアノを弾いていたカイは、オーケストラとのアンサンブル能力も卓抜で、カイのピアノがワルシャワ・フィルの持てる力を何倍にも引き出して行く力を持っていたのです。

この日の演奏順が、向井・パン・カイ・レフの順になったのはなぜなのか、分かりました。もちろんあとに行けば行くほど盛り上がるはずなので、普通ならばカイを最後にすべきでしょう。でも、「カイが覚醒させたワルシャワ・フィル」の力で、「レフを全力でサポートし、さらにその力を開花させる」というストーリーだったのですね。なんと言うことだろう、と思いました。カイは自分自身が成長しながら、森のピアノから大きな空の下へ、世界へと広がって行くピアニストへと成長しながら、フィルハーモニーも、そして間接的に最後のコンテスタント・レフ・シマノフスキの力をも引き出した、と言うストーリーが構想されていたのです。

森の中で振り返る少年レフの目に、森の中で演奏しているワルシャワ・フィルの姿が移り、『レフ・シマノフスキ!!ひとりで勝負するなよ!!』と呼びかける場面は、改めて感動します。

「ガラスのように繊細なピアノ」だったレフが、「ポーランドの苦難の歴史にもくじけない魂が宿った」ピアノへと成長して行く。それぞれのピアニストの持つ天才を、これだけ描き出すことができた一色まことさんは凄いと思うとともに、これだけの作品を生み出すということがどれだけの力を必要とするのか、気が遠くなるような思いにとらわれました。

通して読んでみると、連載のときにはちょっと引っかかったような表現が、凄く重く、大きく響いてくるところがあるのはいつものことなのですが、今回は昨年の10月31日発売号に掲載された221話でそれを感じました。

「俺は森の端という歓楽街で生まれ育った娼婦の息子だ。家からつながる森は俺の庭で、そこに打ち捨てられたピアノは俺のかけがえのない親友だった。揉まれ、戦い、そしてムチャクチャ愛された。仲間と、大切な先生。平坦な道じゃなかったけど、気づくといつも寄りそってくれる人たちがいた。いつだって包まれていた。だから、だから今の俺がいる。俺は何がしたい?ピアノが弾きたい!ピアノを弾いて、俺は世界中に俺の音を届けたい!」

これはつまり、今までの長い長いストーリーをすべて要約した文章で、最初にこの回を読んだときは正直ちょっと興ざめした部分もあったのですが、この長いストーリーの中で読み返してみると、凄く重い位置を占めていることが分かります。

「俺は何がしたい?ピアノが弾きたい!ピアノを弾いて、俺は世界中に俺の音を届けたい!」

それが、芸術家と言うもの。作家というもの。演奏者と言うもの。「俺の音」を届けるのが演奏者なのだ。ならば、「俺の絵」を届けるのが画家であり、「俺の味」を届けるのがシェフであり、みな「俺の何か」を届けるために表現をしているのですね。

それでは、と思いました。私は何を届けるのか。私は書きたい。他の方法もしてみるかもしれないけれども、まずは書きたい。そして、何を届けるのか。作家によって、届けるものは違うかもしれない。でも、私は、「私の好き」を届けたい。そう思いました。

こんな風に、つたない筆で作品の面白さ、すばらしさを伝えようとしているのも、その気持ちがあるからだし、これからもそうして行きたい、と思います。

様々な形で、私の『好き』を伝えて行きたいと思っているのです。

今後とも、お付き合いくださると嬉しいです!(なんて、まとめてみました)