進撃の巨人(2) (講談社コミックス)/講談社
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(その1)からの続きです!


初めて進撃の巨人を読んだとき、なぜか「古風な感じがする」と思った、ということを(その1)では書きました。


その古風な感じというのがなぜするのかということを考えていたのですが、はっと思い当りました。このマンガは、「気高さ」を描こうとしているのではないかと。「気高さ」を描くためには反対の愚劣さ、知性のなさ、臆病であること、自分だけ助かりたいという意識、思考停止、恐怖にとらわれること、無謀であること、怒りに囚われること、無力感にとらわれることなどありとあらゆる人間の卑小さを描かなければならないわけです。


しかしその中で奇蹟のように浮かび上がって来るのが人間の気高さであって、たとえばいとしい人のことを思う時に人は気高さに心を決めることが出来る、というようなことになります。それがステロタイプに堕す危険はややあるなとは思いますが、恐怖の真っただ中で自分が自由に生きるために、あるいは誰かを生かすために戦うことが出来る、そのことそのものが気高いわけですね。「覚悟が決まれば勇気なんて自然にわいてくる」というセリフがありましたが、どんなふうに覚悟を決めるか、その決め方が一つのポイントになっているのだと思います。


気高さ、などという話は生活にまみれた汚い大人(笑)になって来ると忘れてしまうのですが、逆にいえば気高さについて考えるのは若者の特権だと言うところがあるなと思いました。


このマンガを読んでいると囚われの身でありそれに甘んじる人間たちと、それを強いる巨人たちへの強い「苛立ち」が感じられます。この苛立ち、特にエレンのそれはまず第一に「自由を求める気高さ」に由来するわけですが。


こういう考え方をするとつまらなくなる可能性はすごくあると思いましたが、これはアメリカや中国、ロシアなどの「巨人」たちに囲まれて恫喝され搾取される存在である「日本」という「人間の住む国」の現状に対する「苛立ち」と解釈できなくもないわけですね。案外発想の源はそんなところにあるのかもしれないという気もしました。もちろんそういうふうにアナロジーで解釈して分かった気になるのは読み方としてつまらないので、一つの仮説として提出しておくにとどめるておきますが。


巨人が痴呆的であるというのも、周りを取り囲む大国たちに感じる本質的なわけのわからなさが上手く表現されている、というところまで行くとうがち過ぎでしょうかね。(このあたり、のちの諫山さんのインタビューでそれらしい発言があり、当たらずと言えども遠からずかな、と思いました。)


しかしそうなると巨人と人間のいわばハイブリッドとして再生したエレンはどういう立場になるのかなと。また、登場人物の名前はみんなドイツ系の名前で、巨人たちもロシア人やイギリス人の戯画的な像(そういえばこの巨人たちは外国のマンガに出て来る男たちにも似ている…さらにいえばブッシュとかプーチンとかにもみえてこないこともないですね…)に見えて来なくもない感じもしないではないので、それをどう解釈するか。また、ミカサだけが「東洋系だ」という表現が出て来るのもやや気になるところです。……このマンガ、アナロジーで解釈すると相当危険なものが噴出してくるので、あんまりしない方がいいのかもしれませんね。


このエントリを書く前に遠出したついでに『進撃の巨人』第3巻を買いました。帰宅後バーっと読んで読了。3巻のテーマはアルミンの覚醒というところですね。最後ではエレンが自我の殻に閉じこもったりして先が不安だったりしました。ミカサもあきらめかけたエレンの救出をアルミンが試みるところなど、この先に期待が持てるのですが、その一方でアルミンの出てくる場面はどうしても場面的に静的になってしまうのでドライブ感が衰えるという弱点もあるように思いました。そういう意味ではちょっと使いにくいキャラだなと、この時は思しました。


第一巻の世界が崩れていくまさにその現場に立ち会ったような恐怖と不安で何巻も続けていくことは困難ですから、これから世界の静的な部分も構築して行かなければならないということなのだろうと思います。1巻はあまりに鮮やかでした。ここから先の展開は大変だとこの時は思いました。


今やこんなことを書くのが恥ずかしいくらいの壮大なストーリーになっていますね。私が初めて『進撃の巨人』を読んだ時の感想でした。