昔々、その昔、、、というほどでもないちょっと前の話。

 

「短頁」という野原がありました。

その野原を自由に歩き回っていたのですが、ある日ふと足元を見ると光る小石が落ちていました。

ずーっと歩き続けていると、光る小石は少しずつ増えていきました。

 

時には減ったり、時には光る小石でメッセージが書かれていたりもしました。

その光る小石は様々な色で、明るさで、温もりで光を放っていました。

 

光る小石を覗き込んでみると、その落とし主の住んでいる世界と思われる風景が少しの時間流れました。

そして野原にいるのが自分一人ではない気がしました。

 

ある日、「短頁」が立ち入り禁止になりました。

足元に落ちていた光る小石も、もうありません。

 

それでも瞼にはまだ、光る小石の残光が映っています。

少しの思い出と、これからも続く未来を照らすように。

個人的に世の中の出来事はほぼ100%『運』で出来上がっていると考えています。
「努力する」ってことも正直「運が良い」から出来る事だと思うのです。

で、現状を憂う言葉として「時代が変わった」や「時代が悪い」と言った言葉がありますが、以下のマキャベリの言葉を贈りたいと思います。

“「今までも幾度となく述べてきたように、人の運の善し悪しは時代に合わせて行動できるか出来ないかにかかっている。ある者は激情で行動して成功を収める者もいれば、慎重に行動して成功する者もいる。 今、栄えている人物が急に没落したり、行動は変えていないのに、運によって栄えたりするのは何故であろう? その理由は、彼らの器量や能力よりも、彼らの行動が時勢に合ったかどうかによって成功は決定されるものであって、仮に彼らの成功が永続していたのならば、それは時代の要求によって彼らが自分自身を自在に変化させてきた証である。」”

これは「時代」のせいにすることの無意味さをよく表現していると思います。勿論、単に時代に迎合することが「時代に合わせて行動できる」ということではないと思います。
だからこそ、「時代に合わせる事が出来る」ということが『運』にかかっており、全てに通じて言える事だと思うのです。

その上で「時代に合った行動が出来ないのは運が悪かったから」としてしまっては本当に「運が悪かった」で思考も行動も止まってしまいます。
『運』というのはまったく人がコントロール出来ないものでもないと思います。

「運が良いから運を良く出来たのか、運を良くしたから運が良くなったのか」なんだかわけのわからん屁理屈みたいな話ですが、後者の行動を人は起こせるのではないでしょうか。
それはその為に「時代を読む、そして行動する」ということをするかしないかではないでしょうか。

大局的な見方をすれば全て『運』なのですが、人は意志を持って行動し『運』と関われるものだと考えています。

またもマキャベリの言葉をご紹介。

“「私は、はっきりと言う。 慎重であるよりは、果敢であるほうが良いと断言する。 なぜなら、運命の神は女神であり、彼女に対して主導権を得ようと思うならば乱暴に扱うことが必要なのだ。 運命は冷たいほど冷静に対してくる者よりも、征服したいという欲望を露わにしている者になびくようである。要するに運命は女に似て若者の友である。若者は思慮に富んでいないが為に、後々のことを考えず、より激しくより大胆に女を支配するからである。」”

 

以前、『プライド』に関して書いたのですが、ようは「傷つくのが嫌で自分が守らなくてはいけないものはプライドじゃなくって弱点なわけで、生身の自分を支え守る強さがプライドである」ってことです。

まぁ、その『プライド』も自分や周りの環境によって積み重ねられて作り上げられるんだと思うのです。
 

ないモノ・コトばかりに囚われるのが『貧しさ』で、あるモノ・コトを活かすのが『豊かさ』である、ってなことを感じます。

で、「ないモノ・コ」を「あるモノ・コト」へもっていくのがビジネスなんだと思います。

人様が感じている『貧しさ』を『豊かさ』へ変えるのが本質で、『豊かさ』を奪って自分の富にするのがビジネスではないと思うのです。