映画「 三蔵法師・玄奘の旅路」 | 「生身感覚同期」⇒「写楽」

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「光還元⇒自然同期」の「気づきの促し」⇒「ウツシ」「転写」「翻訳」の働き作用 「写楽」とは「転写」を楽しむ事です。

映画「 三蔵法師・玄奘の旅路」

公開用・映画「 三蔵法師・玄奘の旅路」1時間52分54秒2016年4月29日

共産主義の公認の仏教映画です。伝統仏教文化の継承として取り組んだ作品です。2016年 第29回東京国際映画祭 参加作品

時代考証が際立っています。

玄奘は実在した中国の僧で、629年に単独でインドへと旅立ち、経典や仏像を持ち帰って以後の仏教の発展に貢献した人物。
旅の模様を『大唐西域記』という書物に記しており、その旅路を映像化したのが本作です。⇒原作に基づく

長安で務めに励んでいた玄奘は、飢饉などの厳しい現実に直面し、より深く仏教の原典を学ぶべくインド=天竺に行くことを希望します。
しかし、当時の人々にとっては本当にたどり着けるのかわからない未知の旅。さらに、旅には出国の許可が必要なところ、国内の情勢不安からその許可も下りません。
それでも諦めない玄奘は、ひとり秘かに出国。
指名手配犯として追われたり、賊に襲われたり、砂漠で遭難したりー過酷な旅路を息抜き、懸命に天竺を目指して進み続けるのですが……。

「飢饉などの厳しい現実に直面する」と、人は誰でも「生身を通し現実現象を見ます。⇒「衝撃の受容体験」

玄奘(げんじょう)ウィキペディア(Wikipedia)

玄奘(げんじょう、602年―664年3月7日)は、唐代の中国の訳経僧。玄奘は戒名であり、俗名は陳褘(ちんい)。鳩摩羅什、と共に二大訳聖、と呼ばれている。

629年にシルクロード陸路でインドに向かい、ナーランダ僧院などへ巡礼や仏教研究を行って645年に経典657部や仏像などを持って帰還。以後、翻訳作業で従来の誤りを正し、法相宗の開祖となった。

玄奘がナーランダー寺院で学んだ唯識。

「唯識(ゆいしき、)とは、個人、個人にとってのあらゆる諸存在が、唯(ただ)、8種類の識(八識)によって成り立っているという大乗仏教の見解の一つである「瑜伽行唯識学派(ゆがぎょうゆいしきがくは)」ここで、8種類の識とは、五種の感覚(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)、意識、2層の無意識を指す。よって、これら8種の識は総体として、ある個人の広範な表象、認識行為を内含し、あらゆる意識状態やそれらと相互に影響を与え合うその個人の無意識の領域をも内含する。

あらゆる諸存在が個人的に構想された識でしかないのならば、それら諸存在は主観的な存在であり客観的な存在ではない。それら諸存在は無常であり、時には生滅を繰り返して最終的に過去に消えてしまうであろう。即ち、それら諸存在は「空」であり、実体のないものである(諸法空相)。このように、唯識は大乗仏教の「空(くう)」の思想を基礎に置いている。また、唯識と西洋哲学でいう唯心論とは、基本的にも、最終的にも区別される。

 

映画「 三蔵法師・玄奘の旅路」が「ブッダの四門出遊」と同じ現象化である事がわかります。「名前・名札・肩書」が外れると同じ現象として見る事が出来てしまうのです。

「一人一宇宙」ではなく「我即宇宙也」との体感智による現象化です。

「個人・個別」の「ウツシ」「転写」「翻訳」⇒「ミラー反射・転写」の働き⇒「一人一宇宙」が、「集約・凝縮」され「写し」「転写」「翻訳」の現象化⇒相似の法則・原理により「我即宇宙也」

となります。