「名字即」とは「名付け現象」  | 「生身感覚同期」⇒「写楽」

「生身感覚同期」⇒「写楽」

「光還元⇒自然同期」の「気づきの促し」⇒「ウツシ」「転写」「翻訳」の働き作用 「写楽」とは「転写」を楽しむ事です。

「名字即」とは「名付け現象」 

「名字即」とは「言葉」による「名付け」「命名」現象です。「言葉」とは「名付け」「命名」の現象変換の事です。

 誕生後の「言語習得過程⇒全身同期学習」による「言葉」「文字⇒イメージ」の「自我の生成」により作られた「私」「自分自身」は「刷り込み」「条件付け」「上書き保存」の現象化です。

具体的には「名前・名札」の付与により「作られしモノ」です。「思い込み」「信じ込み」の世界観です。

この事に気付くと「名前・名札」がどうでもよくなり「生身感覚」で物事・事象を「見る事」ができるようになります。

先般の「頭のない男」の解釈仮説である「見る事優位」と類似しています。「頭のない男」の解釈仮説のいいところは「名前・名札」の取り外しです。「自我機能同期」の取り外しです。だから、既存の意識現象⇒自我の囚われ・執着から解放されるのです。

しかし、彼ら「頭のない男」に「付着する人々」は「生身感覚」には至っていません。当然、心身の不良不全が残存しています。宗教現象と類似の「不安の補完先」になっているのです。

どうしても「名前・名札」が外れないからです。

 

古今東西の「偉い人」「有名人」には「名前・名札・肩書」に執着・固着する特性が、その人の「人生模様」を生成しているのが見えています。

実例⇒「私がダリだ」 「私が永平寺だ」「私が○○○だ」 

人が、人と出会うと「あなたは誰だ?」と問いかけます。名詞による呼称を求めるのです。

スピリチャル系・宗教系の「偉い人」「有名人」の中には「私は誰でもない」といいながら「名前・名札・肩書」を誇示する「生身感覚知らずの馬鹿さらし」現象があります。

毎日の「メディア情報」「インターネット情報」に出演の方々の共通した「世界観」が「私は○○○だ」です。「誕生後」の「名前・名札」⇒「此岸(この世)の呼称」が「私」「自分自身」の「物語」「ストーリー」を生成しているのです。⇒「リアル劇場」「リアルステージ」です。

 

「名字即」の現象

「名字即」の言われは仏教教学上の順位・序列・階級を言います。平等を説きながらの順位・序列・階級を説いているのです。

仏教教学はその時々の高僧が「意図」「思惑」で設定した「物語」「スーリー」でしかありません。

一応、「名字即現象」の天台大師の定義を紹介します。

「名字即」の言われ

中国の天台大師が摩訶止観で説いた六即(法華経を修行する菩薩の六種の位)の第二位。初めて正法を聞いて一念三千の理を言葉(名字)によって理解し、正法を疑わずに信ずる位をいいます。

① 理即とは、理の上で一切衆生は悉く(ことごとく)仏性を具しているが、未だ正

を聞かず、全く修行の徳がない位をいいます。

②  名字即とは、初めて仏法の名字を見聞し、一切の法は皆仏法であると知る位をい

ます。名字即」を「言葉」と訳す事があります。
③ 観行即とは、名字を知り、その教えのままに修行して、己心に仏性を観ずる位をいいます。
④ 相似即とは、見思(けんじ)・塵沙(じんじゃ)の二惑を断じ、悟りに相似する六根清浄の位をいいます。
⑤ 分真即とは、四十二品ある無明惑のうち、最後の元品の無明だけを残してすべての迷いを滅し、仏性を分々にあらわしていく位をいいます。
⑥ 究竟即とは、元品の無明を断尽した円教究竟の極位をいいます。

 

わかりやすく言い直すならば、意識現象の区別・弁別を通し「悟りへの道」を提唱しているのです。誰も、その通りになった人はいません。「お話」次元の妄想の域ですから。ただ、ひたすら「信じて」「行じて」の「不安の補完」としての「教学体系」なのです。

宗教系・スピリチャル系の「お話」に必ず見られる「教えの体系」です。「言葉」「文字⇒イメージ」遊びの現実現象です。⇒「生身無視」の「自我機能用語」の「ウツシ」「転写」「翻訳」の現象化

 

物事・事象を見る時、人間は「言葉」により現象変換しています。それが「言葉⇒言語体系」による「名付け・命名現象」です。「名詞」と「動詞」「接続詞」等で伝えているのです。この「言葉・言語」の自然現象を理解すると「名字即」の概念・意味内容が自然とわかってきます。

「命名」とは「いのち⇒現象を名付ける事」を言います。

言葉・言語の「現象還元」が自然に「生身感覚」で読み直しができるようになるのです。

「私」「自分自身」とは「思い込み」「信じ込み」の「マルチ転写」による現象化である事が理解されます。理解されると同時に「見直し」が自然に湧き出て来るのです。

「自我機能同期」の始まりは「言葉化⇒言語化」する現象変換の「マルチ転写」の働き作用によるものだと気づきます。

既存の「言葉観」「言語観」からは一切「見直し」はもたらされません。まして「悟り」を得た方々のお話は数多くあれど「現象化」は未だに起きていないのです。

 

お話の現実現象⇒「言葉」「文字⇒イメージ」遊びです。⇒「不安の補完」が「物語」「ストーリー」の現実現象です。誰も、何回読んでも、「信じて」「行じて」も「未完の完結」が現実現象なのです。「個人・個別」の「自我機能同期」による「刷り込み」「条件付け」「上書き保存」でしかないのです。

「100分de名著」75「法華経」2018年 オンデマンドで視聴可

第1回 4月2日放送 全てのいのちは平等である

第2回 4月9日放送 真の自己に目覚めよ

第3回 4月16日放送「永遠のブッダ」が示すもの

第4回 4月23日放送「人間の尊厳」への参加

名著75 「法華経」:100分 de 名著 (nhk.or.jp)

https://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/75_hokekyou/index.html

「非二元」「スピリチャル系」の方々の「お話展開」も「個人・個別」の話で現象化は「語る人物」の「物語」「ストーリー」でしかないのです。

「法華経のお話」と同じ現象化です。「物語」「ストーリー」は時空を超え、形を変え、現象化して来るのです。何故ならば「未完の完結循環」だからです。

しかも、その「非二元」「スピリチャル系」のお話には高額の金額が「付着」しているのが現実現象です。先般紹介の「頭のない男」のセミナー・ワークショップ・DVD等も同様です。

 

人々の「探求循環」のステーションになっているだけで「受講者」「受け手」の方々には、検証確認・検証証明できる現象化は現実現象にはなっていないのが実状です。

 

「非二元」「スピリチャル系」の「偉い人」「有名人」にエクハルト・トールがいます。彼の話す内容は「法華経」の「物語」「ストーリー」に通じるモノです。「生身感覚」で現象還元すると意識循環による現象化が「循環している事が自然に読み取れるのです。

DVD⇒69400円 高額であればあるほど「探求者」は「付着」し購入している。

 

何回もお伝えしています。

「映像の世紀」は、人類史の物語・ストーリーの「見える化現象」です。

この100年間に一気に集約・凝縮されリアル物語・ストーリーが見える化されているのです。「生身感覚」への気づきの促しです。