他の会社の人と、”プロジェクトの企画”など、チームで協力関係を築くことが必須の仕事をしていて困るのは、議論をしていて「どちらが正解なのか?」という疑問を持つ人がとても多いことです。
仕事で議論が過熱すると口論や暴力になることがあるのも困ります。
繁華街の飲食店で泥酔者が口論の末に暴力を振るうのも、プロジェクトの企画を議論するのも、「俺の方が正しい」と口にしている人との議論は慎重にしなければならない場合が多い。
大学の法学部では、法律演習で”正解はない”と教授するきまりとなっている。
演習本にも正解を記載しないことになっている。
しかし、高校までの教育課程では、生徒は教師と「正解かどうか」を争う議論をすることが多い。
「正解」とは「唯一絶対の回答であり、無二の回答。」を指す。
日本人は「自分の主張と相手の主張のどちらが正解か」という議論をする場合が多い。
しかし、「唯一絶対・無二の回答」などあるわけがない。
たとえば、仕事においてマニュアルがある場合であっても、そのマニュアルは人の作成したものなので、改正した方が良いことが多く、「正解」「不正解」というような絶対的な決着の付く課題は、この世には存在しない。
「どちらが正解か」という議論は、「真理の探究」と同じく、とても不毛な時間を浪費していることになる。
テレビドラマで「真実を見つける」などと主人公が決め台詞的に発言するが、21世紀の現代社会に「真実」などない。
真実が、見方によって、見る人の価値観によって異なる様相を呈する。
”合法か違法か?”という議論だけが現代社会では、(裁判所での決着ではあるが)決着が付きやすい。それ以外の課題や問題が”個人間で決着がつく”方法は”妥協”のみである。
前出の「プロジェクトの企画」での「どちらが正解なのか?」については「正解はないので、妥協して、協力して解決してほしい。」ということになる。
日本人は「妥協を嫌がる習性」を学校教育(正解教育)によって刷り込まれるので、協力関係の構築が下手なのである。
日本人が高速道路のあおり運転や、子どもの躾が過剰になり殺害してしまう原因の一端に
「学校で、妥協できない人間性を育てている」ことがある。
多様性が理解できないのも、学校教育(正解教育)に主な原因がある。
「協力」とは「妥協して力を合わせていくこと」なので日本人に最も難しいことである。
日本人にとって、もっとも簡単なことは「相手を暴力で封じること」なのである。
妥協を否定されれば、暴力しかないではないか。