昨日の続きです。
藤原秀衡にかくまわれた義経ですが、頼朝の追手の手は止まず、31歳の若さで生涯を終えます。
が、蝦夷に逃げ延び、そこから大陸に渡り、やがてジンギスカンになったという話は、義経好きの日本人が多いから、どこかで生きていてほしいという願望ゆえでしょうね。
年代的には辻褄が合わなくもないらしいけど、まぁ歴史のロマンということでしょうか。
下は毛超寺の浄土庭園です。
画像はお借りしました。
ここから先は、何%かは事実かもしれないというエピソードです。
黄金堂や毛越寺など、優れた文化を生み出した藤原三代ですが、頼朝軍に滅ぼされてしまう。
徳の前 (一説では秀衡の側室、一説では秀衡の妹)と、それを警護する三十六人の武将が追手を逃れて、奥羽山脈を越え、日本海側の港町に着きます。
そこで徳の前は髪を下ろして尼となり、庵をむすぶ。
それを守るように、三十六人衆は田畑を耕し、その地に根を下ろす。
そして歳月は流れ、三十六人衆は廻船問屋として、北前航路で栄える港町の要となっていきます。
そのうちの一軒は西鶴の『日本永代蔵』にも描かれている。
その建物は、今でも町の真ん中に現存しています。
今は耐震工事中なので、何年後かに一般公開される予定です。
どのくらいが歴史的事実で、どのくらいが単なる伝説なのかは、かなり判然としない部分があることはあります。
でも、徳の前が髪を下ろして、徳尼となったというお寺が現存するので、かなりの部分は事実に近いんじゃないでしょうか。
地名、固有名詞は、はっきり書いていませんが、もし興味のある方がいらしたら、メッセージでお知らせしようかと思います。