北風が吹く日の夕刻に、渡海僧は、30日分の食料と灯火のための油を載せて この小さな屋形船に、乗りこみ
渡海僧が、船の屋形のなかに入りこむと、出て来られないように、扉には、外から釘が、打ちつけられたそうです。
渡海船は、白綱で繋がれた伴船とともに、沖の綱切島あたりまで行くと、綱を切られ、あとは波間を漂い、風に流され、いずれ沈んでいったものと思われる。
渡海僧は、船が沈むまでの間、密閉された暗く狭い空間のなかで、かすかな灯火を頼りに、ただひたすらお経を読み、死後、観音浄土に生まれ変わることを願い、そして、船は沈み、入水往生を遂げたのでしょう。
しかし、船が沈むさまを見た人も、渡海者たちの行く末を記した記録も存在しない。
との話でした。
************
大昔 の話
教科書などに絶対出てこない 裏の歴史
日本は 別のグループに別れていた時代が有り
それぞれ 天◯ (今年4月末に大イベント有る) 的存在 もいて
でも勢力の強い 攻撃を好むグループは、もう片方の自然崇拝型の戦いを好まない弱いグループに弾圧を掛け、弱いグループは全てを失い、国を追われて 奈良経由に たどり着いた熊野の地の神社などに身を伏せていた様です。(熊野の地から逃げない様にされていた)
その追われていた グループが最後にたどり着いたのが 浜の宮王子社
補陀落渡海 は 弾圧を受けていた人を 東日本に逃がす為の理由付けで
那智の浜の沖で綱を切られた小さな小舟 屋形舟は黒潮の流れに乗り東日本へ、 千葉の九十九里浜などの浜に流れついた模様
東日本では その舟を待っていて 脱出に協力していたメンバーもいて
聖徳太子は その代表者だったみたい。
なので 千葉、東京、神奈川で 「熊野」や「波」「舟」 などの 海関係の名前の付く神社や地名と
浅草も ・・
江戸の街も ・・
紋章が 「左三つ巴」の神社は
は 熊野から逃げて来た人達の直系列だそうです。
補陀落渡海について ネットで この様な話も
補陀落渡海をやった僧の中には、黒潮の流れに逆らい、沖縄にまで辿り着いた渡海上人がいた。その僧は、16世紀に、補陀落渡海を試み、沖縄県金武村の近くの海岸に漂着した、日秀上人である。
熊野の那智の浜を旅立ち、1100キロ彼方の沖縄に辿り着いた時は、デイゴの花咲くこの地こそ、観音浄土だと思った事だろう。
その後、当地に、補陀落院観音寺を建立し、那覇市にある琉球八社の一つ、波上宮なども再興し、精力的に熊野信仰を広げた」
その証拠として 沖縄 金武にある神社には
独身時代の「浩宮殿下」も訪れているんですね
こんな 小ちゃなお寺に。
補陀落渡海 の隠れた話
先ず 真実だろうと。
此処から 話変わります。
私事の話で 長くなるので 興味無い方は スルーして下さい
浜の宮王子社の事を知り
場所を調べて ビックリ‼️
とゆうか、「ああ こうゆう事か」と。
この 浜の宮王子社
自分が 何時も 車中泊している 道の駅なちの 道挟んだ正面でした。
前記事で写真をアップした 鳥居の反対側に見えるのが 道の駅 オーマイガー🤷♂️