花はお見舞いでなければいけないのかな?
春爛漫である。「花見に行かねば!」使命感を感じ、週末に母とお花見に行きました🌸家族が車椅子で生活するようになって、世界中がバリアフリーになってしまえと思うようになりました。母は料理を作り買物に行き花を楽しむような人でした。脳出血の後遺症で右半身が動かなくなり、もう料理を作ることは出来ません。自由に買物に出かけることも出来ません。出来ることがごく限られた生活の中で、自分の欲を捨てようと努力しているようにも見える母に、花を楽しんでもらいたいと思っています。若い頃に華道師範の資格を取得した母は、指導こそしてはいませんでしたが、気が向くと花瓶を選び、玄関や床の間に花を飾っていました。特に精神的に落ち込んだ時、花を生けていました。絶望的に部屋が散らかっていても、花を生けていました。母の花瓶コレクション。他にも桐箱入りのものや水盤がたくさんあります。後見開始初期に母が入院していた病院は圧迫感があり、部屋も殺風景でした。なので、私は任意後見委任契約の「日常品の購入」に値すると判断し母のお金で花を買い飾りました。5,000円の薔薇の花束とかではありません。3束1,000円とかの、、、本人の資産状況からして全く問題のない支出です。当時、意識の薄かった母ですが、花を見せ、近づけると「イイニオイ(*´v`)」と笑顔を見せてくれました。しかし、母のお金で花を買うことに関して後見監督人伊東弁護士よりご注意がありました。「花はお見舞いで、後見人のお金で買うものではないですよね〜」「本人が花を買ってこいと言ったんですか〜?」家庭裁判所への報告にも記されていました。「本人へのお見舞い品についても、本人の財産より支出していた」本人はどういう人間で、どうして花を買ったか。後見監督人伊東弁護士は全く興味がありません。一方、新聞に成年後見制度促進に積極的に取り組んでいる品川区の例として、老人ホームで暮らすAさんの部屋に花を飾る支援を行っているというお話が出ていました。支援といっても後見に関する記事です。後見業務の一環として本人のお金で花を買っているのだと思います。成年後見制度において花を飾るという行為は、あえて新聞の記事になるくらい特別なことだと知るとともに思ったのです。専門職後見人が花を買うことは美談で、本人をよく知る娘が花を買うのは不相当と指摘される、、、確かに親族が病院に花を持参するのは「お見舞い」です。他人が花を買うのは気の利いた「業務」かもしれません。正しいです。でも人の生活って「正しさ」の枠に収まるほど単純ではないし、家族の在り方って様々だと思うのです。母とこんな会話をしました。「申し訳ないから花とか色々買ってこなくていいわよ。」「お母さんのお金で買っているんだけどやめた方がいい?」「だったらいいわ。」もし、母のお金で母の好きな花を買う事が否定されるのなら、おばあちゃんのお金でおばあちゃんの好きないちご大福を買うことも、おじいちゃんのお金でおじいちゃんの好きな石川さゆりのCDを買うことも、「お見舞いで後見人のお金で買うものではないですよね〜」親族後見人は本人のお金で本人の好きなものを買うことはできない。そして、私が被後見人になった時、私のお金は私の好きな物に使われない。任意後見代理権目録に「花を買う。」とか「孫にお年玉をあげる。」とか事細かに入れるべきだったのかな?専門職後見人や後見監督人の判断や行為は公正で有意義。親族の判断や行為は公私混同となるから無償で献身すべき。これ、法曹的後見制度裏基本理念のように感じるのです。専門職と呼ばれる後見人や後見監督人はどれだけ被後見人のことをわかっているのだろう、、、