皇后八幡神社のブログ -2ページ目

皇后八幡神社のブログ

広島県三原市須波西にある「皇后八幡神社(こうごうはちまんじんじゃ)」のブログです。

天からこの地上に降り立った神、もしくはその子孫の神々を

 

総称して「天津神」と言います。

 

中でも「別天津神」(ことあまつかみ)と呼ばれる5神格は、

 

宇宙を創造した古き神々で、神の中の神と言えます。

 

次の7代イザナギ、イザナミまでが「神代七代」(かみのよ

 

ななよ)と呼ばれる高天原の神々です。イザナギ、イザナミは、

 

地上に降りたち神々を生み出した「国生みの神」です。

 

2神は天照大神を始め多くの神々を生みましたがここまでが

 

「天津神」と呼ばれる神々です。

 

「天津神」に対し、もともとの土着の神が「国津神」です。

 

建御名方神(たけみなかたのかみ)、大国主命(おおくにぬし

 

のみこと)が代表的な「国津神」です。

 

この「天津神」「国津神」を合わせて「天神地祗」(てんじん

 

ちぎ)と呼び神道の中心神たちであります。

 

 

 

 

七五三は子供の無事な成長を願い、三・五・七歳で行われる

 

お祝です。由来は、中世に行われていた「髪置きの祝い」の

 

行事に端を発します。三歳になると男女ともそれまでのお

 

かっぱ頭から髪を子供らしく結い上げる儀式が行われました。

 

また、紐付きの着物を着ていた女の子が初めて帯付きの着物

 

を着てお参りに行く地域もありました。また武家社会では

 

五歳になると男の子に袴を着せて祝う「袴着の祝い」があり

 

ました。七歳のお祝いには、特別な意味があります。昔は

 

「七歳までは神の子」と言われ、七歳まで無事に成長したこ

 

とをことのほか喜びました。また七歳になると幼児から少年

 

少女期に入ると考えられており、神社の氏子入りも認められ

 

現在でも、小学校の入学は満六歳(数え歳で七歳)で、この

 

年代は外の世界へ足を踏み入れる時期なのです。

 

七五三を十一月十五日に行うのは、江戸時代、五代将軍・徳川

 

綱吉が跡取りである徳松の髪置きの儀式を十一月十五日に

 

行ったのがきっかけです。

 

 

土御門天皇の第三皇子である邦仁(くにひと)王は、承久の

 

乱のときは二才でありました。父が土佐に流された後は母の

 

叔父や祖母のもとでひっそりと育ち、二十歳を過ぎても元服

 

せず、出家する予定でした。

 

ところが、四条天皇が皇子女のないまま突然崩御したため、

 

乱には関係なかった土御門天皇の皇子・邦仁王が天皇になり

 

ました(後嵯峨天皇)。

 

後嵯峨天皇は在位四年で皇子の久仁(ひさひと)親王に譲位

 

し(後深草天皇)、さらにその後、後深草天皇に命じて弟の

 

恒仁(つねひと)親王に譲位させ(亀山天皇)、二代二十六

 

年にわたって院政を行いました。後嵯峨天皇は幕府と円満で

 

あったため、在位中に各地に嵯峨殿、吉田泉殿、鳥羽殿など

 

の御殿を造り、遊宴、歌合、管弦、蹴鞠などの行事を催した

 

り、高野山ほか各地に行幸しました。またたくさんの皇子女

 

をもうけました。

 

一二六七年(文永五)後嵯峨天皇は出家し、法皇となり、四

 

年後(文永九)に崩御しました。