書に親しむ皆さんは、古代中国の書論に心を動かされた経験があるのではないでしょうか。
今日は、その中でも「蔡邕(さいよう)」について記したとされる『蔡邕書説』の言葉から、興味深い一節をご紹介します。

それは──
「書は散なり」
という言葉です。

この一言に続けて、次のような解説が添えられています。
「胸中の思いを心の外に解き放ち、感情や本性のままにして、その後に書く」

この「散(さん)」という字は、単に「ばらばらになる」という意味ではなく、「内にこもっていたものを解き放つ」「心の奥にあるものが外へとほどけていく」ようなニュアンスを含んでいます。


感情の放出か、それとも無の境地か?

この言葉にふれて、ふと思うのです。
これはつまり、「感情(気)の放出こそが書である」という意味なのか。
それとも、心の中の感情や執着がすべて放たれた「無」の状態に至ってから筆をとるべきだという意味なのか──。

どちらも考えさせられる深い言葉です。

筆をとる瞬間、私たちは何を感じているでしょうか。
怒りや悲しみをぶつけるように書いた文字には、火花のような勢いが宿る。
けれど、何かを乗り越えた後の穏やかさで書かれた文字には、静かな深みと優しさがにじみ出る。

この「散」という字が示すのは、おそらく「己の内なるものと向き合う過程そのものが書である」という真理かもしれません。
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蔡邕とは?

この言葉の出典『蔡邕書説』の、蔡邕(さいよう、132年頃〜192年頃)は、後漢末期の文人であり書家、音楽家、政治家でした。
彼は書論・音律・歴史・天文にも通じ、当代屈指の博識として知られました。
書家としても高名で、碑文の制作に関わったり、古典の筆跡を研究・整理したりと、後世の書道史に大きな影響を与えています。

なかでも『蔡邕書説』は、中国最古の本格的な書論の一つとして知られており、「書とは何か?」という問いに向き合う私たち現代人にとっても、大きな示唆を与えてくれます。


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あなたにとって「散」とは何か?

私は書とは、内にあるものが外に漏れ出る芸術であり、
気が満ち、解き放たれることで筆が走ると考えています。
しかし蔡邕は、放たれた後の静かな心でこそ、美しい一筆が生まれると伝えたかったのかもしれません。

あなたは、どちらだと思いますか?

どうぞ、皆さん自身の「散」を探してみてください。