「サトちゃん!こっちだよ!」
雅紀が大きく手を振る。
サトシはそれに手を振って応え、砂を蹴りあげ海の中に浮かぶ雅紀へと駆けていく。
…智が走ったところなど、7年一緒にいたが1度も見た事がない。
無邪気に走るサトシの姿に、少し胸が痛む。
サトシを保護して1ヶ月。
日常生活は全く問題なく送れるようになった。
ただ…サトシはたまに何かに向かって話し掛けているような仕草が見て取れた。
1人の時…
例えば海岸で並んで腰掛けて海を眺めていて、俺が飲み物を買いに行って戻ってきた時とか。
トイレから戻ってきた時とか。
そういうふとした瞬間、何も無い所へ向かって口を必死に動かしている。
まるで、俺には聞こえない声で喋っているような。
何も無い空間に向かい、時に青ざめ、時に赤くなるサトシは正直に言うと不気味に感じることもある。
どんな過去を背負い、何を思いどう生きてるのかまるでわからない。
人間味を感じない智に、本当に人なのか、などという馬鹿げた思いすら芽生えてしまう。
だけど、サトシがどういう存在であれ、どんどん惹かれてしまっている自分に俺は気付いていた。
まるでそれこそが自然の摂理のような。
運命というものがあるのであれば、それが手招きしているような。
そんな、抗いようのない…自然な流れに感じた。
こんなの、自分を正当化するためのただの言い訳に過ぎないのかもしれないけれど。
キャハハハ…と、波の向こうで笑う雅紀の声。
向かいにはサトシがいて、楽しそうに水面を下から掬いあげて雅紀に飛ばしている。
水滴は8月の陽射しを受けてキラキラと光る。
いつの間にかサトシは雅紀に懐いていた。
最初の反応が異常だったのだ。
家政婦には普通だったし…
何故あんなに怯えたのかとサトシに聞いても、怯えてなどいない、の一点張りだった。
もしかしたら雅紀から匂った生臭さなどが原因だったのかもしれない。
海で溺れたサトシにとって、あまり良い記憶が無いのは当然だ。
しかし、水に顔をつけなければ息ができると理解したサトシはすぐに海にも慣れた。
泳ぎを教えたのは雅紀の方だ。
俺はまだ──海が怖い。
息苦しく、暗く深い海の底がフラッシュバックし、頭を振る。
海岸沿いを散歩して慣らしているのに、一向に慣れない。
記憶は断片的だ。
だけど一つだけ明確に覚えていることがある。
あの時海の中で聞いた智の声。
──死なないで…!
あれは幻聴だったのだろうか。
だけど不自然な場所に打ち上げられた俺の身体が、見えない智の存在を肯定しているような気がしている。
有り得ない、と思いつつ、俺はどこかで信じているんだ。
3日後に俺と同じように砂浜に現れたサトシが、海の中で聞いた智の声の主だという夢みたいな奇跡を。
ザバザバと浅瀬を歩き、滴る水をそのままにサトシが俺の元へ歩み寄る。
よく見ると雅紀は1人で勝手に泳いでいる。
「どうした?」
《翔くんは入らないんですか?》
「俺は…まだやめとくよ。」
どうしたって思い出す。
俺が溺れてこの浜辺へ打ち上げられたのは、サトシを見つけた3日前。
つまり、俺が溺れてから1ヶ月というわけだ。
トラウマを克服するにはまだあまりに日が浅い。
身体は正直で…あの時のことを思い出す度、小刻みに震える。
《……。》
サトシが俺の隣に座る。
「どうした?」
《疲れたので、休憩です。》
まだ海に入ってからさほど時間は経ってない。
それがサトシの気遣いだと、気付かない方がおかしい。
散歩中も、寝付けない時も、悪夢を見て目覚めた時も。
サトシは震える俺に何も聞かず必ず寄り添ってくれていたんだから。
「…大丈夫だよ。遊んどいで?」
サトシは俺の顔を覗き込むように顔を傾ける。
陽に焼けた肌から、ぽたりと水滴が落ちる。
智の青白いそれとは真逆のそれ……。
サトシはそのままニコッと笑う。
《海より、翔くんの隣の方が楽しいです。》
幸せだ、と思った。
ドキドキ高鳴る胸も、きゅんと甘く締め付けられる気持ちも。
智の時と同じで、だけど少し違くて。
このままずっとこの穏やかな時が続けばいい。
そう、身勝手にも思ってしまう。
サトシは不安で仕方ないだろうに──。
だけど
俺にとっては目の前のサトシが全てで
サトシにとっても、多分…
俺が世界の全てになっている。
種類はどうであれ、明確な好意を感じる。
それは当然なのかもしれない。
今のサトシには何も無いのだ。
どこへも届け出ず繋がりの光を閉ざしているのは、他でもない俺なのだけれど。
「…何も聞かないの?俺が海に入らない理由も、サトシと名付けた理由も…。」
サトシは少し考え、優しく笑い手と口を動かす。
《あなたが話したいことなら何だって聞きます。話したくないことなら、聞きません。》
…きっと…受け入れてくれる。
サトシは…俺の元から去らない。
だなんて…自惚れが過ぎるかもしれない。
だけど
話したい、と思った。
俺があの日海で溺れた理由を。
サトシの影に見る、大野智という初恋の相手のことを──。
全てを、知って欲しいと。
その上で俺を選んで欲しい、と…初めて、そう思えた。
「サトシ…実は……」
言いかけた言葉は、ジャリ、と背後から鳴った足音で飲み込んだ。
「こんにちは。」
突然、ふわりとした声が聞こえて。
驚いて振り返ると、そこには──
「…えっ、と……」
見知らぬ男が立っていた。
「やっと見つけた。」
その男は困った顔で笑う。
ドクン。
「なん…で……」
2度目の声で、俺は確信した。
聞き間違えるはずがない。
その声は、間違いなく智の声だった。