サトシの体調はすぐに回復した。
筆談で意思疎通は出来るけど、常にノートとペンを駆使出来る訳でもないし、話をスムーズにするため手話も一緒に勉強した。
生活の一切を忘れているサトシは、毎日色んなことを吸収していった。
単純に、教えるのは楽しかった。
雅紀は基本ずっと友達と遊びに出てたから、日中はずっと二人きりで智に色んなことを学ばせる。
試しにと思って財布を開いて見せてみたけど、金の計算とかもからきしダメ。
それに身体の動かし方も不安定で…まるで重力というものがわかっていないような。
走ったらすぐコケるし、ジャンプすら少し変。
普通に歩いてって階段から落ちたことも壁に激突したこともある。
どういう記憶の失い方をしたらこうなるのか見当もつかない。
ただ…飲み込みは早い。
仕組みはわかりました、と得意げに伝えてくるサトシは、元々は運動神経が良かったのだろうと推測した。
すぐに日常生活に困らない動きはマスターした。
智が俺にしてくれてたように、今度は俺がこっちのサトシに色んなことを1から教えるということ。
それが、なんつーか、バトンを繋いだっつーか。
智と…繋がってる感じがして、俺にとってはとても意味のあることに感じた。
「今日は何食べたい?」
《お庭で野菜を取りたいです!》
「また?」
サトシはよく庭に行って虫と戯れていた。
家政婦が食育として俺らのために育てている野菜畑だ。
それまで畑なんて入ったことがなかった。
ミミズを見て飛び上がったのは俺の方で、サトシは《可愛い》と微笑んだ。
サトシは虫も覚えていなかった。
と言うより…見たことはあるけど、名前は知らないって感じで。
まるでテレビか何かの画面上では目にしたことがあったけど、実際触れたことがない、みたいな反応だった。
《あれの名前は?》
「トンボだね。赤とんぼ。まだ暑いのに早いな。」
《これは?》
「アゲハ蝶。」
《あげはちょう……綺麗ですね。》
目をキラキラさせ手話で綺麗と伝えるサトシに自然に頬が緩む。
「春にはもっとたくさんの蝶がいるよ。モンキチョウとか、モンシロチョウとか…梅雨には蛍っていう光る虫もいる。向こうの用水路の方に毎年出るんだ。車のハザードたくと仲間だと思って寄ってくるんだよ。」
《光?見たい!楽しみです!》
「わかった。来年見よ?約束な。」
《ありがとうございます!》
ひらりひらりと不規則に羽ばたく蝶はサトシの周りを楽しそうに舞い踊る。
サトシはそれを幼児のように追いかける。
くるくる、時に軽やかにジャンプして。
智に出来なかったことを、サトシは出来る。
サトシに出来ないことを、智は出来ていた。
一見すると矛盾しているようだが、その不一致すらもサトシの中に亡き智を見てしまう。
サトシはいつまでここにいてくれるのだろうか。
ふとした時に、不安がよぎる。
サトシは記憶を失っているだけ。
サトシには違う名前があり、サトシの歩んできた人生がある。
家族だって友人だって……恋人だって、居るかもしれない。
モンシロチョウや蛍を見るだなんて、そんな先のこと、不確かな約束だ。
分かってる。
それでも今は…
今だけは、俺だけのもの。
そんな風に思ってしまう俺は、異常なのだろうか。
結局、警察には連れて行かなかった。
というのも、サトシが強く拒んだからだ。
何かに怯えるように頭を左右に振って、懇願されて。
散々悩んだ結果、値は張るが闇医者を探して診てもらうことにした。
正規の医者だと通報される可能性が高いと踏んだのだ。
幸い家には無駄に自由な金がある。
『失声症』と、『逆行性健忘』。
予想通りの診断結果だ。
逆行性健忘とは、過去の記憶を覚えていられない症状のこと。(対極にあるのが、新しいことを覚えられない症状らしい)
外傷は特になく、声も記憶も失った理由は心因性のものだろうと決断付けられた。
あの時水を大量に飲んでいたし、溺れていたことは確実だろう。
心因性ショックがあったとしてもおかしくはない。
雅紀は、サトシの家族や恋人が探してるかもしれないから警察は行った方がいいんじゃないかと何度か聞いてきた。
だけどサトシは──いや。
最終的には、俺がそれを拒む形になっていた。
正直
引き離されるのが嫌だったからだ。
サトシの顔は、彼に瓜二つだ。
ただ、行動は全く似てない。
彼…智は
まるで重力なんて感じないように、ふわりと静かに歩く人だった。
それなのに、ジャンプひとつ自由に出来ない身体だった。
頭が良くて、俺に学校の勉強だけでなく色んな国の言葉まで教えてくれていたくらいに博識だった。
それでも…この何も知らない、何も出来ないサトシに同じように惹かれてしまうのは何故だろう。
顔が好きだから?
──そんな簡単な、馬鹿げた理由ではない。
『約束通り、智が帰ってきた。』
そう思ってしまうのは、顔が似てるせいだけじゃない気がして。
だけど、実際智が帰ってくるだなんて有り得ない。
そもそも非現実的だ。
智は俺の目の前で確かに死んだ。
葬式にも出た。
智の遺言通り、灰の一部を海に撒くのも手伝った。
それに
『戻る』と約束した12年という期限は、あの日呆気なく過ぎてしまったのだから。
だから、俺はあの日──。
……あの日の記憶は曖昧だ。
未だ身体の力も上手く入らない。
まるでずっと、海をさまよっているかのよう。
足は波に取られ、身体はゆらりと流される。
智を失った心のように、真っ暗な海の底にいる感覚が、あの日からずっと続いている。