お弟子さんから、ある僧侶の宣伝をブログでしてほしいと依頼が。
鶴尾小学校元校長の田中義人先生が現在布教活動をされているとのこと。
来月27日、さぬき市遍照院弘海寺にて法話会があります。
そのお坊さんとは、観賢僧正(かんげんそうじょう)
「僧正」とは
上から順に
正僧正(しょうそうじょう)
僧正
大僧都(だいそうず)
僧都
小僧都
律師(りっし)
最上位にあたる僧正クラスは、長年の修行と布教活動によって多大な貢献が認められた長老クラスの僧侶。
以下は、お弟子さん作成の紹介文
令和六年は観賢僧正千百年御遠忌にあたる年でありました。
観賢僧正は、現高松市鶴尾地区に産まれた真言宗のお坊さんです。
観賢僧正は時の醍醐天皇へ、空海への大師号を贈られるように、尽力なされた方です。また、高野山に連綿と伝えられている、お衣替えの名で広く信仰を集める法会に深く関わった方です。
承和二年(835)旧暦三月二十一日寅の刻、お大師さまは永遠のご誓願をたてられ、高野山奥の院にご入定(にゅうじょう)されました。
大師ご入定から86年過ぎたある夜、お大師さまは醍醐天皇の夢枕に立たれて「高野山結ぶ庵に袖朽ちて苔の下にぞ有名の月」という歌を詠まれました。今も袖が朽ちるまで歩き続け、月の光のように悩み苦しむ者を照らし救っています、という意味です。
天皇は非常に感激され、せめて衣だけでも新しいものを着て頂きたいと弘法大師のおくり名と桧皮色(ひわだいろ)の御衣を贈られました。
この時、衣を持ち大師号の報告に高野山に登られた観賢僧正から「南無大師遍照金剛」の言葉が発せられて以来、真言宗ではこの言葉がご宝号としてお唱えされています。
大師ご入定から86年もの間、固く閉ざされていた御廟を開くと一面にたちこめる芳ばしい香りと共にお大師さまがお姿を現されました。感激の涙を止めるすべない観賢僧正は、お大師さまの膝まで伸びた髪とひげを剃り、朽ち破れた装束をお着せ替えになりました。しかし、すぐそばにいた弟子の淳祐(じゅんゆう)には、いくら目をこらしても大師の姿を見ることができなかったといいます。肉眼にたよりすぎ、目の前の大師のお姿を拝することができない弟子を哀れに思った観賢が、淳祐の手を取って大師の膝に触れさせたところ、やわらかな感触とともに妙なる香りが手に残り、生涯消えることはありませんでした。のちに淳祐は多くの経典を書き写されましたが、それらの書跡類にも美しい香りが残り、「薫聖経(においのしょうぎょう)」の名でひろく知られ国宝に指定されています。
以上
これが「薫聖経(においのしょうぎょう)」↓
少し調べてみると出自が秦氏なんですね。だからプロデュースできたわけだ。
観賢さんがいなければ弘法大師もなかったということか。空海と交流があった秦氏には勤操、護命もいらっしゃる。秦氏さまさまです。
お大師様が御入定されたのが3月21日なので本日はご縁日。
真言宗は、仏教の中でも密教と言われる仏教で、真言(仏様のそのままの言葉を音写してお唱えする)を重要視しています。
日本では漢文で書かれたものが多いのは、中国で漢字に書き換えられて伝わってきたため。
陀羅尼(ダラニ:古代インドのサンスクリット語の呪文)を重視し、「南無」を「オン」と読んだり
たとえば不動明王御真言は、
ノウマク サンマンダ バザラダン センダン マカロシャダ ソワタヤ ウンタラタ カンマン
唱え方はこんな感じ
「のーまく さんまんだー ばーざらだん せんだん まーかろしゃーだー そわたや うんたらたー かんまん」
密教というのは、段階を踏まえながら、仏様になりきって実践していく、というところに真髄がある。仏様の言葉を発することで仏と一体化するということ。
四国遍路では、白衣に同行二人(どうぎょうににん)と書いて、南無大師遍照金剛と常に唱えながら参拝する。
お大師様と一緒に歩いているという思いをもって、お遍路をしている。
真言宗の考え方は、人間は生きながらにして仏になれる(即身成仏)。
そこに気づくよう人々に促している。
曼荼羅は、どんなに嫌な人でも中心にいる自分に作用してくれているというメッセージ。
中心に大日如来様がいらっしゃって
その周りにいろんな仏様がいる
中には殺人鬼もいる
まさに世界を表している。





