これは僕が小学校の時に買ってもらったダルマさんです。“起き上がり小法師(こぼし)”とも言いますね。願い事ができたら左目に墨を入れ、達成できたら右目にも入れるという風習があります。そもそも菩提達磨(ダルマ)は禅宗を開祖したインド僧。6世紀に中国に教えを伝え、日本には鎌倉時代に入ってきました。ダルマさんの手足がないのは、9年間壁に向かって座禅をしたために手足が腐ってしまったからという話は有名です。
話は変わって、先月末に新聞にでかでかと日展の審査の不正 が取り沙汰されていました。依りによって「書」の部門で。最近多いですねこういうの。レストランのメニュー表示偽装とか。はやりなんでしょうねきっと。だいたいこういうのが流行っている時って裏でなんかあるんだろうなと思っていたら、今月の5日ごろに人類史上初となる4号機の核燃料取り出し作業 が予定されていたようで。ところが、史上初というのに東電はシュミレーションをしておらず、この件に関して協力を依頼していたアメリカの専門家から待ったがかかっていたらしい。
今月中には準備を整え作業は開始されるそうな。
自然界、昆虫や植物の世界でも騙すことは日常的に行われている。擬態ってのがありますが、隠蔽的擬態と標識的擬態に分けられている。隠蔽型は背景に色を似せて目立たなくさせる保護色や隠蔽色が、標識型は逆で目立つ色を持つことで餌や敵を欺く。毒をもつ種をまねる警告色などのベーツ型擬態、何種類かの動物が同じような色や形をもつことで敵を欺くミュラー型擬態、餌をおびき寄せるためのベッカム型擬態がある。
これを人間界に当てはめると、レストランはミュラー型、書壇は隠蔽的擬態とベッカム型の合わせ技ということになるんだろうか、、という冗談はさておいて。
命の保持と繁殖のみの擬態ならそれは自然なこと。でも人間の場合は私欲が絡むからややこしくなる。地位、権力、お金・・・少し想像力を働かせれば裏は読めるのだから簡単に騙されないように擬態した色を見分ける眼力を育んでいきたいもの。でも人間界には裏の事情が絡みまくってくるから大変。どんなに良い食材を使って料理してみても、多くの人々はアミノ酸等でうまみを増幅させてた添加物まみれの安い料理を求める。
高くて美味しいのは当たり前、安くて美味しいのは嬉しい。これだから生産者は頭を抱える。今の世ので営為の絡むことはほとんどが騙しになるのだから、そこを突いて不正だと言われてもなぁとも思うけど、そもそもメニュー名なんかはもう実際のところは言葉遊びにすぎないわけで。その言葉を受け取った側が自分のイメージを展開する。つまりそこは幻想の世界。生産者は、いかに消費者の体験や思考に準じて言葉を並べ替え幻想の世界を創り上げるかが求められる。イメージの展開によってその言葉に積極的に生を持たせたのは消費者だけど、そこで生産者の正直さが問われた時には今回のように汚れてしまったと。
一応、上の二つの業界に従事してきて、その辺に関してはまあ悶々としながら、時に怒りを覚えながら経て来た僕ですが、それぞれの社会の体質はどうにもならないし、この先はどう考えても良い方向にはいかないだろうと。書道界だってどんどん衰退していってるのは事実。そうやって見ると往く先は、禅的な修行に切り替えることを余儀なくされるとこに行き着く。書道も本来は禅的姿だったはずなのに、いつからか褒賞なるものができてしまった。そして人はそれを目指すことに喜びを見出すようになってしまった。なにかを与えられなければ、得ることを目的としなければ・・・という方向へと。まさに低レベルの合理性。
僕は6年ほど前にそんな裏事情を知ったときに、自分が過去に受賞した時の「喜び」というものは簡単に消え失せた。でも、作品を創っていた時の「苦しみ」は身に付いて残っていてそれは今もあるし、たぶん今後も継続していく限り残っていくんだろうと思う。書壇だけでなくこういう世界においては、そういった苦しみは誰もが味わっているもの。ましてや日展は日本においては最高峰に位置する芸術展ですから、そこに出品することのできる資格を得るまでの努力はすさまじい。僕になんかは到底無理な世界だし。
今回の報道によってその社会の外に住む人々はきっと批判的な感情だけを抱いてしまうのだろう。僕は上の方の事情は知らないけどそういうことはあって当たり前だということも最近身をもって知ってしまったから一通りの整理はつけていて。そんなわけだから褒賞や肩書を得ようとはもう思わなくなってしまった。
システムに取り込まれてしまったらそこから抜け出すのはとても難しいし、そもそもこの先は肩書なんて意味のないもの、必要のないものになっていくようにも思う。世間では褒賞が示されていない場合に努力する人間はいないとされていますが、僕はアマノジャクなんでそれはちょっと違うんじゃないのと思い始めたところから今の教室の形に至ったわけで。これまでに、さほど多くはないにしても、いろいろな子供たちをみてきた結果、やはり代価はそれほど必要ないなという結論に至っていて。
褒賞を求めるということを批判しているわけではなくて、それを得るためにする努力ではなく、努力によって精進するための手段とするならそれは経験として必要なのかなと。そうやって自らを振り返って見ると、今の僕があるのは前者と後者の両方のお蔭なんだけど、行ってた努力というものは仏語でいう精進ではなかったとはっきりといえる。そこに真実はなかったと。これらのことはあまりにも遅すぎる気づきでもあり、遅すぎた故に今もそのシステムから抜け出すこともままならないでいる。
この大きい岩石のような固定観念を砕く作業。これはこれでまた苦行のようなものだな。また壁に向かって坐ってみようかな。達磨さんのように。
Bob Dyikan/Like a Rolling Stone
