お盆の時期にあることがきっかけで命について考えていました。あること、というのはお祭りの金魚のことなのですが、まぁほんとに小さなことです、、、っていう小さなことの「小さな」というのは命の大きさを表しているのかというそのあたりのことについてです。また面倒なことを考えているわけです。
そういった命についてのことを考えていたときに、昔の風景を俯瞰で見ていました、つまり思い出していたわけですが時代は小学3年生まで遡ります。
ある日の放課後、クラスの友達と公園で遊んでいた時のことです。その子がカエルを捕まえてきて爆竹と一緒にマッチ箱の中に入れ破裂させたのです。それを見た僕は、こいつはどこかが狂っているなと子供心に思いました。これはとても強烈な体験で3年生以前の記憶はこれのみといっては言いすぎですが、カエルの無残な姿を見せつけられたことは、放課後の公園にある風景としてはあり得ない残酷さだったのです。その出来事のせいでそれ以来僕はカエルを守ろうとして下校時にカエルを見つけるとポケットに入れて帰宅していたのだと思わずにはいられません。
そしてここから「残酷さ」ということについてまた考えていました。この時、巷ではこんな ニュースが物議をかもしていました。こんなことが問題になる時代です、といいたいのではなく人間ってそうする生き物なわけで残酷さを排除しようとする動きはいつだってあるものです。とはいっても、はだしのゲンの件はその極端な思想が子供に悪影響を与えるといったことからの観覧制限なわけですが、皮肉なことに制限したことにより売れ行きが3倍になったらしい。でもこれが最初から注目度を上げるための意図した報道だったとしたらそれはそれでおもしろい(もちろん皮肉で)。
実際この漫画は学校の図書室で読む程度が一番よく、これを個人で買うっていうのはどうなんだろうか。正直僕が小学生当時に読んでいた時はその内容を全部事実だとは捉えておらず、ただただ人間の残酷さ、悲惨さを見ていただけであったわけです。人間のすることが人間をどんな状態にするものなのかという描写だけを見ていたのです。結局のところ、人は残酷さを知らなければ人を守ろうと思ったり救おうとすることはできないのではないかと思っています。
たとえば「フォアグラができるまで」の残酷物語をYouTubeで見てしまうともうフォアグラは食べられなくなるわけです。犬猫の殺処分現場、ペット達の現状を見てしまうと軽い気持ちでペットショップできなくなるわけです。化粧品を作るために行われている動物実験を見てしまうとちょっと化粧品メーカーにも疑問をいだくわけです。ちなみに今はアレッポの石鹸
で頭の先から足の先まで洗っています。
そんなことをするようになってしまうんです。
というように、残酷物語を見ると自分の中でなにか変化する。震災が起きました。そこでみんな変化したはずなのになぜどんどん堕落していくのか。国がその事実をすべて隠してきたし、今も隠し続け目くらましをして残酷物語を感動物語にしてしまったことによる痛みに対する感覚麻痺。想像の及ばない痛みっていうのは感じようとしなければ知ることはできない。目の前で体験して初めて感じられるという、そういったことでいえば教育プロレスなんてのもあります。
ある教育評論家のように、怒らないだとか叱らないだとか、何かにつけ守ろうとするのってやはりどうなのかと思うわけです。子供がやりたくないことを無理やりやらせるのはどうかという、親よ子の顔色をもっと伺え、的なそんな内容の四国新聞の記事を以前このブログでも取り上げていましたっけ。親が子供の意見を尊重しようとするといったおかしな傾向。子供のストレスを排除しようとすればストレスに免疫のない精神の弱い子供が育つ。そうして社会に出て辛いことがあればすぐに現実逃避する。少し考えればわかることなのにテレビに出ている評論家の言葉を鵜呑みにする。子供を甘やかして結果学校では学級崩壊が起きる。ちなみに僕の姉は本年度からモンスターペアレンツの方々が比較的多くいらっしゃる学校に転勤になっておりますよ。これこそ残酷物語ですね。一番大事な時期の3人の子を抱えている姉が絶対的にストレス過多の学校へ赴任させられるという。その辺はもうちょっと家庭環境を踏まえてかんがえていただきたいものですよね。といっても実際問題はそれだけではないらしく、若い世代の教師が全く育っていないという、ちょっと心配な人材が多すぎるということこそ憂慮すべき問題らしいっす。以上現場からでした。
話がだいぶあっちこっちそれていますけども、まぁ全部ひっくるめていえば、個人の想像力の貧困化によるもので説明がすきますよね。想像力があれば美化されたものの裏にある残酷物語を知ることはできるはずだし。
先日4000本安打という偉業を成し遂げたイチローさんがこんなことを言っていましたよね。「4000の成功の裏には8000の失敗がある。」と。しかもご本人は実は練習は嫌いだと公言したこともあります。でもこんなことも仰っています
”キライなことをやれといわれてやれる能力は、あとになってかならず生きてきます。”
あと先日NHKで三輪さんの特番やってましたけども、「ヨイトマケの唄」を聴いてみるのもいいかもしれませんね。過酷な現実におかれながらも胸を張って働く母親を子は見ていますよ。いつの時代だって子は親を見ていますよね。
子供はほとんどの場合守られているもので現実の世界を見ることのないように大人たちは装おうとする。しかし大人へと成長する過程で子供は現実を知り、ある種の失望感を覚える。その失望感がいまは昔と比べて大きくなっているのだと思たりもする。世の中は虚構の世界だけどもドリームランドではないわけです。子供たちの夢の世界には死はなく残酷物語もほとんどない。命を救うためには何をすればよいのかもわからない。
つまりそう、ここで出てくるのが冒頭で述べていたお祭りの金魚の命だったのです。その命に大きさはあるのか、人間とその他生物の命の大きさに差はあるのかというよくありがちな形而上の問いです。祭りで買ったばかりの金魚が死んでしまった時に親はなんと言えばいいのかなと思ってしまったことからの今回の思索。そんななにげない一言が命を粗末に扱ってしまう原因になりはしないだろうかと心配してしまう今日この頃なのでした。
人って魂を込めるってことをするけど、これこそが金魚にも魂を入れれるヒントになるんじゃないだろうか。草や花にも木にも命はあると。そこに愛を、思いを、感情だったり意志や理性を入れると命の中に魂ができあがっていくっていう、そこに命の大きさを見るのだろうかな。
そういうことにしておこう。