本日はひさびさの論語の紹介。
「学んで時に之を習う、亦(また)説(よろこ)ばしからずや。
(学習したら、そのことについて、いつでも時間さえあれば復習する。それはなんと嬉しいことではないか)
に続く以下
「朋(とも)有り、遠方より来る、亦楽しからずや
(同じ志を持つ友がいて、遠方よりやってきてくれる。なんとそれは楽しいことではないか。
人知らずして いきどおらず、亦君子ならずや。」
誰も自分の実力を理解してくれなくても、不平不満に思わない。それこそ立派な君子ではないか。)
がんばっていることを誰にもわかってくれなくても、がんばり続ける人こそが立派なのです、と。
今回も適当に選んで書きましたが最後の言葉はグサっときますな。
ここでは、社会的知性や他者性は必要ない。人間は他者によって自分を再発見するし、そういった関係性の中で自分を見つめ直し磨く、向上するといったことは人間の本質であるはずだけども
ここでは、結局のところ人間は孤独なんだと、だったらもう道は一つ、他人の役に立ちつつ己と向き合い向上していくことこそが君子なんじゃな、ってことかな。
偶然にも前回の記事内容と重なったように思います。アイデンティティ(=社会的知性)は着脱可能にカスタムできればなお良しってことかな。
ここで、孔子先生がどんなところに位置する人なのかってのをわかりやすく表すとこんな感じ。
神道=天照大御神
仏教=釈迦
儒教=孔子
道教=老子
キリスト教=イエス
イスラム教=モハメット
