「何を加えても心の中には神は見つからないが、引き算の過程では見つけることができる。」 (マイスター・エックハルト)
「私はその大理石の中に天使を見、彼を自由にするまで彫り続けた。」 (ミケランジェロ)
この二つの言葉の意味するところは同じ。
あるべき自分になるように足りないところを身につけようとする。
これは頭(理性)によるコントロールらしいです。
本当の自分を削りだすという行為は心(感情)が行うものであり
ミケランジェロは石の中に閉じ込められていたダビデを削り出したということです。
「ダビデの像」
映画「マトリックス」でいうと、頭がエージェント・スミス(人工知能)で、心がネオ(真我に目覚めた人間)
マトリックス(仮想現実)の中で人は「頭」によってつくり出された常識、道徳によって洗脳されていて眠った状態。そこから目覚めたのがネオ達というわけ。そしてネオは物語のラストで悟りに到るのです。
私たちが生活しているこの世界も同じことで、世間一般に広がっている常識、道徳観というものは本当に正しいものなのか。
普通に考えたらこうするのが常識でしょ・・・っていうところのその”常識”って大多数がそうだからっていう理由にしか過ぎないのではないかと。そういう意味でもツイッターの拡散機能って怖いです。特に今は。少し前まではビジネス戦略としても有効に使われていましたが、今はニセ情報の拡散が問題になっています。これも一つのわかりやすい洗脳と言えるのではないかと。
あー違う。また話がそれた。
上のダビデ像の写真のアソコにモザイクを入れて遊んでたあたりから他ごとを考え始めていた。
そう、削り出すということ。
余計な贅肉をそぎ落とした「一」です。
「はじめ」とも読みますが。今回は「はじめ」に戻ろうという意味で使いたいと思います。
自分に足りないところを身につけるという、ある種の努力というやつは道徳的にも善い事とされています。でも、削り出す(本当の自分に向かって)という意味での努力はどうですか、というのが今回の本題。
「本当の自分」というものはもともと内在されているもので、その上からいろいろと付加してしまう。それが余計なものなのではないかという考えがあります。
例えばこちら
「歯の生えかわりから思春期までの子供の中に科学は存在していない。そういった意味で無意識では大人よりも子供の方がかしこいといえる。その子供に私は科学的なイメージを押し付けるのではなく、自由な想像性を発揮できるようにうながさなければならない。」 (ルドルフ・シュタイナー)
「一」にプラスすることは簡単だけど、「0(ゼロ)」にするのは難しい。
「円相」という書がありますがこれは禅僧などが完全な悟り、心の本来の姿を示すために描く円です。なにかのCMで墨で円を書いているシーンを見たことがあるのではないかと思いますが、あの円こそが、削り出すことによって出てくる核(本当の自分)なのではないかと思います。
もっとわかりやすく言うと、ゲームの世界で社会現象ともなっている「モンスターハンター」(私はやったことないのですが)略してモンハン。モンハン部なる部活も存在しています。
そのモンハンというのは、モンスターを倒していくごとに、より強い武器や鎧を装備していき、さらなる強敵を倒すべくあくせくモンスターをハントするゲームです。
最終的にはこれでもかというくらいに鎧を装備して、人としての原型を留めていない姿になるようです。ここで言いたいのは、本来の自分は鎧で隠されているという、そして鎧が自分なんだと錯覚してしまっているというオチです。実際に強い自分がそこにいるわけだからそうなってしまうわけなんですが。
しかしおもしろいのは、聞いた話ですがこのゲームを攻略してしまったプレーヤーは鎧を全部脱ぎ捨てて裸になって戦いたくなるというのです。
ここに人間の本質というか、いろいろ足りないと思ってたから付けてきたけど、やっぱはじめの時の自分がいいや、っていう。それこそが心が本当に求めていることのように思えてしかたないのです。
