「先生、お待たせしました」

いつもの喫茶店のドアベルが鳴り、香織が息を弾ませて入ってきた。38歳という年齢にふさわしい落ち着いたトープ色のコートを着ているが、私を見つけた瞬間に見せる笑顔は、まるで迷子が大好きな人を見つけたときのそれだった。

「慌てなくていい。時間はたっぷりあるからね」

私は手元の文庫本を閉じ、眼鏡を外して微笑んだ。今年で62歳。髪には白いものが混じり、目尻の皺は深く刻まれている。香織とはちょうど24歳差。世間から見れば、年の離れた上司と部下、あるいは年の瀬の親子に見えるかもしれない。

二人の関係に、名前はない。

私は既婚者であり、彼女は独身。けれど、ここには世俗的な「不倫」という言葉が持つ、後ろ暗い熱は一切なかった。私たちは互いの肌に触れたこともなければ、それを望んだこともない。

香織は席に着くなり、今日仕事であった小さな失敗や、通り道で見つけた可愛い野良猫の話を、楽しそうに、時に悔しそうに話し始めた。

「それでね、課長が本当に理不尽で……。私、間違ったことは言ってないはずなのに」

少し唇を尖らせて私を見つめる彼女の瞳は、38歳の大人の女性のものではなく、父親に今日学校であった理不尽を訴える少女のそれだった。香織は幼い頃に父親を亡くしている。彼女の中にぽっかりと空いていた「父親に無条件で甘える」という椅子に、どういう巡り合わせか、私が腰掛けることになったのだ。

「香織は正しいよ。君の書類はいつも丁寧で、筋が通っているからね」

私がそう言ってゆっくり頷くと、香織の表情が目に見えて柔らかくなった。




「……よかった。先生にそう言ってもらえると、ちゃんと救われます」

彼女の甘え方は、決して私に何かを強要しない。ただ、私の言葉を受け止め、安心したいだけなのだ。私はそんな彼女に、無限の肯定を与えたかった。実の娘がもし生きていたら、きっとこれくらいの年齢だろうか。そんな愛おしさを込めて、私は彼女を見守る。

珈琲をおかわりし、外の景色が夕暮れから夜へと移り変わる頃、香織がふと寂しそうな目をした。

「先生。私、時々怖くなるんです。こんな風に先生に甘えてばかりで、私はいつまで経っても自立できないんじゃないかって」

大人の女性としての理性が、時折彼女を不安にさせるのだろう。私はそっと手を伸ばし、テーブルの上にある彼女の手の、すぐ側に自分の手を置いた。触れはしない。けれど、温もりが伝わる距離で。

「香織、木はね、根っこが深く、しっかりと守られているからこそ、枝葉を空へ伸ばせるんだよ。君が私に甘えるのは、根っこを休ませているだけだ。ここで十分に安心したら、君はまた明日、自分の足で大人の世界を歩いていける。だから、何も恐れることはない」

香織は私の言葉を一つひとつ噛み締めるように聞き、やがて深く息を吐き出した。その表情は、先ほどまでの少女のものではなく、美しく自立した38歳の女性のものに戻っていた。

「……はい。ありがとうございます、お父さん」

悪戯っぽく、でも心からの親愛を込めて、彼女はそう呼んだ。

「さあ、お腹が空いたね。今日は何を食べようか。もちろん、私のおごりだ」

「やった! じゃあ、美味しいお肉が食べたいです」

席を立つ彼女の背中を見ながら、私は心の中で、この静かで清らかな愛が、彼女の未来をいつまでも照らす灯火であるようにと願った。


触れ合わないからこそ、決して壊れない。24歳差の、私たちのひだまりのような関係だった。