また教育の話である。


大学のカリキュラムについて学部ごとに到達目標を文部科学省が定めるらしい。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080325-OYT1T00392.htm


これって学問の自由に対する国の干渉なのではないか?


大学が何を研究し何を教えるかは、大学設置基準の範囲内では自由なはずだ。

卒業生の質を確保するために大学内および大学相互間で学者自身が自主的に取り組むのであれば尊重すべきだが、国主導のこういうおせっかいは反対だ。


こんなこと許したらそのうち大学の教師にも資格制度が作られるかもしれない。
そのうち特徴のない大学ばかりになりはしないかと心配である。


20年程前の大学の授業はどうだったか思い出してみると、私は工学部だったので数学・物理・化学はスタンダードな大学課程のカリキュラムだったのではないかと思う。


数学はε-δ法などから始まる微分積分学と行列やベクトルを扱う線形代数学から始まって微分方程式などの応用数学へ進んでいく。その後、複素関数論などもやったような。

物理は力学・統計物理・電磁気学・量子力学といった順序だったか。
化学はいきなり量子化学から始まって閉口した覚えがあるが。

1・2年生はどこの大学でも理工系ならこのような内容なのではないだろうか。
実質、これらの分野では標準化されたカリキュラムがあったようなものである。
いちいち国の指導などいらない。


専門課程も○○工学科というように目的が大体決まっているので、開講されている講義も基本的なところではどこの大学でも似たようなものではないのかと思う。
実験は設備によって違いはあるだろうが。


人文・社会科学はどうなのだろうか?
これは私にはよくわからない。
到達目標なんて決められるのだろうか甚だギモンである。


私が受けた語学の授業については大いに改善の余地があった。
第一外国語として英語、第二外国語としてドイツ語を履修したがどちらも中途半端だった。
英語は読んで訳すだけで新たな文法を学ぶわけでもないので面白くないし勉強にならない。
英作文中心の授業はそれなりに勉強になったが、これも高校レベルを超えるものでもない。
英語は高校レベルである程度完成だとすれば大学は実践練習であるべきではなかったかと思う。
ドイツ語は辞書が引けるようになったくらいである。とにかく文法をひたすら詰め込んだかんじ。
大学院を受験することもなかったのでドイツ語は1・2年でおさらばであった。
ドイツ語をやる時間があったら英語に磨きをかけるほうが良かったのではないか。

今はもっと洗練されたカリキュラムになっていることを望む。


ともあれ、卒業生の質の問題は大学自身で解決するべきだと思う。


私がこうやって大学についてあれこれ考える理由にはいくつかある。

そのひとつは学者・学生が自由にものを考え、研究することで世の中が進歩するであろうという期待である。
それは発明発見という結果でもある。世の中を批判し、反省し、より良きものとするための提案がなされることでもある。


この砦を失うようなことがあれば、社会は企業や行政によってがんじがらめにされてしまうのではないかという不安を私は持っているのだ。


がんばれ大学、がんばれ学者諸君、学生諸君。


次の本はお勧めである。


「民」富論  誰もが豊かになれる経済学 堂免信義(朝日新聞社)


私は経済に明るくないが、内容もわかりやすいし様々な疑問に答えてくれる。

たとえば景気拡大が続いていると言われているのに好況感がないのはなぜかといった疑問。

個別では可能だが全体では不可能なこと及びその逆について。etc.


著者は元エンジニアで退職後に独学で経済学を研究したという。

是非、現役の経済学者や政治家、官僚に読んでもらい、この本に述べられていることについて真偽の程を検討してもらいたい。


この本の主張として、グローバリズムによって格差拡大が起こること、それに対抗するために所得の再分配や地産地消を進めるべきことがのべられている。


値段が高くても国産のものを買うように・・・・という主張はいいのだが、関税をかけるような貿易障壁を作らずにそれを促す方法が課題である。

ひとつの方法として「生存共同組合」を提案しているが、さてどうだろう。

「金儲けではなく、人々の生活水準を上げるために働く」という実に理想を掲げたものである。


どうも社会主義・共産主義的な世の中を志向する感じになるのではないかという気もする。


ともあれ、皆が豊かになれる社会って実現しようと思えばできるんじゃないか!という期待感が読後にすがすがしい気分をもたらしてくれた。



「民」富論


 最近たまたまマクドナルドでコーヒーを飲んだらこれが意外においしいことに気づいた。


 マクドナルドといえば、ファーストフードの代表格で世界中どこにでもあるというグローバリゼーションの権化みたいな印象があった。


 最近も店長さんが管理職かどうかで裁判になっていて、印象も悪かった。

 100円メニューもアルバイトの安い時給によって実現されているに違いない、ケシカラン!と思っていた。


 ハンバーガーも体に悪いんじゃないかという気がして、ちょっと店に入るのをためらいがちであった。


 喫茶店がどこも席が埋まっていたのでやむなくマクドナルドでホットコーヒーを飲んだら、適度の苦味と酸味があって、100円のわりにウマいじゃないか、となったわけである。120円の缶コーヒーを立ったまま飲むくらいならこっちのほうがお得。

 

 と思っていたところ、マクドナルドのコーヒーは最近「プレムアムローストコーヒー」と称して盛んに宣伝していた。私の味覚がまんざらでもないのか?マクドナルドの戦略に乗せられていたのか?


 安くて美味いものをもっと探そうとなんとなく思った次第です。

 近年は大学入学者の約4割が筆記試験を経ない推薦やAO入試等の方法で選考されているそうである。


それに伴いだんだん入学者の学力が担保されなくなっているため、中教審は推薦入試やAO入試受験者も必ず受ける学力テストを提言している。


 かつての受験戦争時代は知育偏重だとか、1回のペーパーテストで人間の価値が決められてたまるものかとかいろいろ批判を浴びていた。


 少子化のためについに大学全入時代が到来し、一部の難関大学を除いては入学は楽になったようであるし、推薦やAO入試という多様な選考方法は望まれるところだったはずである。

多くの国民が高等教育を受けられるようになったのだから本来なら歓迎される状況になったはずなのだが、今度は学生の学力低下があまりに酷いとのこと。なんだか情けないことになっている。


 学力を支えていたのは結局ペーパーテストだったということか?


 そもそも大学教育とは、社会に有用な人材を輩出するため専門的な学問を授けるとか教養ある人間を育てるのが目的であったはずである。


<参考:学校教育法第53条>
  学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的

能力を展開させることを目的としている。


 これらに照らし合わせて入学後の学習に適した生徒を見出す方法を各大学で工夫すればいい話なのだが、全入時代と推薦・AO入試が増えたせいで選考が機能していないようだ。

 では、かつてのようにペーパーテストを重視し、さらに点数の低い者は仮に定員割れしても入学させないとでもすれば回復するのだろうか?

 私は学力の担保という意味では機能するとは思うが、批判を受けていたペーパーテスト重視の弊害が復活する懸念がある。

 

 上記のような大学教育の目的に沿った人間の育成をしたいなら、生徒の「知的好奇心」や「学ぶ意欲」を見てあげる必要があるのではないか。

 

 また、様々な面から物事を見なければ捉え難い問題が多くある現代においては、専門的知識だけでなく「教養」が問われるのではないだろうか。

 大学に入学して初めのうちは学部に関わらずある程度の一般教養科目を受講するようになっているはずだ。
ここで専門科目の準備的教育をするとともに幅広い教養をつけるということになっている。

一般教養は高校の授業の延長みたいでつまらないという学生もいたが、私の経験では結構面白いものもあった。
私は工学部だったので、理数系の科目は専門科目の準備的教育の面が強く、義務感があったが、哲学とか心理学とかそういった科目は概説であったにしても自分で読書したり友人と議論するのに参考になったものだ。
こういう教養科目は何に役立つとかそういう目的のあるものではなかったが、視野が広がった感じがした。
 今の自分が教養人だとは言えないが、少なくとも教養ある人間になりたいと思っている私としては、大学に入って良かったもののひとつに幅広く知的好奇心が高められたことが挙げられる。

 

 現在、学力不足を補うために多くの大学で高校レベルの補習を行っているそうで、それはやむをえないのだろうが、多分私の学生時代(20年ぐらい前)ならそのようなことは自分で補って勉強するのが当たり前とされただろう。
 それに大学の講義は一回聴いたぐらいではわからないのも多く、自分で考えたり、友人と一緒に考えたり、図書館で関係の本を読んでみたり、頭の中でゴロゴロ転がし続けなければならないものがあった。
 それがまた楽しいところでもあった。


 自ら学ぶこと。好奇心をもって幅広い見方ができるようになること。わからないことに耐え考え続けること。


大学生には個々の学問を学ぶとともに、こういった態度を身に着けて欲しいし、そうすることで教養のある人間になるものと思うのだ。


 推薦とかAO入試は本来、このような自学自習の力・好奇心などの観点で素質のある生徒をすくい上げるためにあったのではないだろうか。ペーパーテストでは測れない素質を見たかったのではなかったか。
 (もちろん基礎的な学力、常識が備わっていることを信用した上で高校からの推薦を受け入れることになっていたのだろうが。)
 
 私は学力低下の原因はゆとり教育や大学全入だけでなく、知性を尊重する雰囲気が薄れていることも大きいと思っている。大学はあくまで知性を磨くために行くところなのだということを再認識すべきである。


 どうすれば大学教育にふさわしい生徒を見極められるか、選考する側の大学はもっと研究が必要である。

 単純に学力テストを課せばいいというものではない。

だいぶ時期を逸しているが、最近ふと思いついたので書く。


 高野連が野球特待生を認めない。一方で他のスポーツは特待生を認めている。

 高野連が頭が固くて現状に則していない。何で野球だけだめなのか。

 高校野球の甲子園常連校は当然のように野球特待生を入学させてきた。

 勉強ができる生徒の特待生もあるのだから、スポーツ特待生もあっていいではないか。

 経済的に困窮している家庭の生徒が、得意な野球を強みに進学できていいではないか。


これまでのニュース等で出てきた論調・意見はこんな感じだろう。

私も、そういう考えもあるだろうなと、受け流していた。


でもなんかしっくりこない。


そもそも高校や大学はスポーツをするためにあるのだろうか?

教育の主は学業であって、部活動はそれを補強したり余暇を充実させるものではないのか。


野球やその他のスポーツが上手であることと、英語や数学ができることとはかなり質が違う。

学業をしっかりやりつつスポーツをやるから「学生スポーツ」なのである。

学業は問わないからスポーツに精を出してくれ、というような制度を学校で設けるのはおかしな話である。

(学業は問わないなどと、建前上言うわけはないが)


経済的に困窮しているけど、スポーツが得意だから進学できるという話は一見良いように見える。

じゃあ、経済的に困窮していてスポーツが得意ではない生徒は進学の道が断たれてもかまわないのだろうか?


経済的支援は奨学金や授業料免除制度等で行うべきで、その判定基準は家庭の経済状態と学業成績(ここは学校によってレベルはいろいろだろうが)だけにするべきだろう。


スポーツ強豪校は、甲子園などの大会で知名度を高め、入学志願者を確保するという目的でスポーツ振興をしているだろうし、それも当然のごとく世間では認知されていた。

最近の傾向としては、スポーツで知名度を高め、その後「進学コース」を設立して進学校になっていこうという目論見の学校もある。


だが、である。

スポーツが得意だから高校や大学に推薦・特待生として入学でき、卒業するときは一般の生徒と同列で卒業証書をもらえるといのは、学業を主とするべき学校のありかたとしていかがなものだろうか。

もちろん、スポーツを通じての教育効果もあるだろう。文武両道を見事に実行している生徒もいることだろう。

だが、中には「スポーツで高校・大学に行った」と言う感覚の人もいることだろう。


その場合、スポーツ推薦とかスポーツ特待生制度によって「スポーツだけできれば良い」というような不健全な生徒を生まないかということが懸念される。スポーツ特待生が一般の生徒と同列またはそれ以上の教育成果をあげているのだろうかという疑問がある。


スポーツ推薦ということで大学に進学する人がいる。

一般入試ではその大学には入れないけどスポーツができるということを強みに(たとえば六大学野球とかオリンピックに出られそうとかで)入学できる人がいる。

こう言っては何だが、本当に大学の授業についていけてるのか?

(一般入試で入った学生もついていけない授業もある中で・・・)

もしかして、学業はそっちのけでもよいことになっているとか・・・・。

もしそれで他の学生と同列で卒業証書をもらって「大卒」という肩書きをつけているとすれば、やはり不公平感があるのではないか。


オリンピックやプロスポーツ予備軍レベルの学生・生徒は飛びぬけて優れた能力を持っているのだから、そういう人たちを優遇するくらいいいではないか。そういう学生・生徒がいることが「宣伝効果」となる学校側と、スポーツができる環境を提供してもらえる学生・生徒側の両者の利害が一致しているのでいいのではないか。

なるほどそういう考え方もある。世間の多くはこの考え方であろう。


今回、問題となった発端は、高校・大学からプロ野球への入団に関して、裏金またはそれに類する金が絡んだりしてしまったことだ。全くもって教育上良くない話だ。


さて、何で学校とスポーツがこんなに密着した関係になったのか。

今でこそ六大学野球のお荷物と言われている東大は実は日本の野球発祥の地とされている。

海外のスポーツを導入する際、体育設備があることと、競技する若者が集まっていることは必要なことだ。

もちろんスポーツによる教育効果もあってのことだろう。実際「体育」の大半が「スポーツ競技」に拠っている。


当然の成り行きとして、学校毎にチームが編成され、対抗試合が催されるようになる。そして大会に発展する。

そのチームは「部活動」が中心になるのも当然だ。

アマチュアスポーツの普及は学校に併設された部活動によるところが大きかった。

あくまで課外活動である部活動としてのスポーツが、年を経るごとに学校の威信(知名度)につながったり、生徒側はプロスポーツという職業やオリンピックなどの名声を得ることにつながっていったわけだ。

(学校として設備が用意できないスケートなどは、部活動よりは学校以外のクラブが主になっているようだ。)


戦前も旧制中学などによる野球の対抗戦は人気が過熱し、他校の有力選手の引き抜きや、学業面をおろそかにする「野球学校」の存在などが問題となっていたらしい。

それが今回適用された「日本学生野球憲章」につながった。


<参考> 「日本学生野球憲章」そもそもどうして生まれたの?  

        http://www.sankei.co.jp/sports/baseball/070514/bbl070514000.htm


実態として野球特待生が存在していたことを放置していた高野連にも問題はあるが、憲章に違反していた高校は文句を言う立場にはない。


長々と書いてきたが、私の意見は次のとおり。

日本学生野球憲章の述べるとおり、あくまで学業が主であって、これはどのスポーツについても同様。

あらゆるスポーツ推薦入学、スポーツ特待生は認めるべきでない。

あくまで学業を修めつつスポーツをしているという形にすべきだ。


「学校」は教育機関なのだから、スポーツだけが取り柄みたいなバランスを欠いた学生・生徒を育ててはいけない。