私は3歳からリトミックに通っていました。

とにかく音楽に合わせて体を動かすことが大好きでした。


母は保育士で、少しはピアノが弾けるので、家にはいろんな音楽のレコードがあり、特にクラシックが多かったです。


4歳ぐらいの頃、同じリトミック教室の子がバレエを習っていて、要らなくなったバレエのピンクのチュチュを母がもらってきました。


私がバレエを初めて知ったのは、その時でした。


習いたくてたまりませんでしたが、我が家は裕福ではなかったので、父が反対。


ただ、その時に心の中に灯ったバレエへの熱い思いはその後も消えることなく、何度も何度も土下座して父にお願いしましたが、ダメでした。


かわいそうだと思った母が、1回だけ、バレエの舞台に連れて行ってくれました。


森下洋子さんの白鳥の湖。

感動し、レコードを買ってもらい、家でずっと踊っていたのを覚えています。


中学は私立の女子校。

そこには、なんと、バレエダンス部があったのです!


でも、入学したと同時に廃部になりました。


バレエへの道は完全に閉ざされたと思っていましたが


中学2年のとき、副担任で、元新体操をしていた体育の女性の先生が赴任して来られました。


バレエ要素のある、新体操。

女子校なので体育の時間に少し基本を学びました。


バレエはできないけど、すぐに新体操にハマりました。


当時は体もかたいし、運動ができないほうなので、周りより手具の扱いも不器用ですが、先生がものすごく私を褒めてくださり、褒められたことがない私には衝撃でした!


そのうち、クラブ活動として週に1回、学年問わず、1時間のレッスンが始まりました。


私は誰よりも早く体育館に行き、ストレッチをやっていましたが、そこへ新体操を他で習っている先輩たちがやってきました。


馬乗りになって無理やり脚を開かれ、股関節を痛めてしまいました。

親に言うとやめさせられるので、黙っていました。


その後、新体操は部活になりましたが、私が入ろうか迷っていると、先輩たちに、もし入ったら酷い目に遭わせてやる、といわれ、怖くて諦めました。


高校生になっても、バレエのことは諦められず、図書館で見つけた『バレリーナの手紙』という本をバイブルに、見様見真似で家の中や空き地で踊っていました。


後に、その本の写真のバレリーナ、谷桃子バレエ団のシニアプリンシパル尾本安代先生とお会いし、宝物のお言葉をいただくとは、夢にも思っていませんでした。


バレエへの道がついに開かれたのは、高校2年の時。


初めてお小遣いをもらいました。


我が家は裕福ではないのに、姉妹二人共私立に行ったため、家計は火の車だったのだと思います。


部活もダメ、習い事は絶対にダメでした。


だから、親に内緒で、タウンページでバレエ教室を探し、やっと、お小遣いで行けそうなところを見つけ、土曜日の学校帰りに行くことになりました。


レオタードは、母が公民館のヨガ教室で使っていたものがあったのでそれを使い、シューズは、バレエ教室でお古をいただき、タイツだけ買いました。


当時は、高校生からバレエを習う人なんていないので、小さい子供たちとレッスンしました。


それでも、憧れのバレエは楽しくてたまりませんでした。

いつか、トゥシューズが履けるといいねといっていたのに。


わずか2か月で、その夢も絶たれました。


学校で転倒し、足首の靭帯(前距腓靭帯)を断裂してしまったのです。


素直でウソのつけない私は、医者に、何か運動しているのか聞かれたとき、バレエをやっていることを言ってしまいました。


父は激怒して、お小遣いもなくなりました。


手術での痛みよりも、バレエができなくなったことがショックだったのは、今でも強く覚えています。


が、しかし。


バレエバカの私は、それでも諦めきれず、とうとうバレエを習っている同級生と、バレエダンス同好会を作ったのです!


高校3年生、受験生なのに。


なかなか活動は思うようにできませんでしたが、数ヶ月みんなで創作ダンスを練習し、文化祭に出る予定でした。


高校最後の文化祭なので、内緒にしていた母に見てもらいたくて呼びました。


パッヘルベルのカノン

バレエっぽい振り付けで。


私はそこで、2回目の靭帯断裂。

母の目の前で…


完全にバレエの道は閉ざされてしまった…



そして、大学生。

バレエのことなど考えることもなかったのに、部活でバレエをやっているのを知って、見学に行きました。


でも、同じ場所で、たった3人で楽しそうに組み体操みたいなことをやっているグループに目が行ってしまいました。


それがチアリーダーだったのです。


偶然にも、仲良くなった友人に誘われ、なんと、バレエではなく、チアリーダー部に入部したのです!


なんだかんだいって、ケガばかりで運動歴のない私は何もかも難しく、本当にできるのかと思っていましたが、そこは若さ、難しいことにも果敢にチャレンジしました。


実は、チアに入る前、転倒で3回目の足首靭帯断裂をしましたが、手術しないでなんとかやっていました。


けれど、やはり、足首は弱くなっていたのでしょう。


入ってしばらくして、4回目の断裂。


再び手術。


医療系の大学でしたので、提携の大学病院で手術しました。


チアもできず、リハビリの毎日。


それでも、絶対に復帰したかったのでがんばりました。


弱小チアリーダーはいろいろありましたが、ついに全国大会に出場が決まりました。


夢の代々木体育館。


私はハイトップ。

最も上のポジションです。


予選、今でも忘れられません。


動かない脚、周りからの頑張れコール、痛みよりも何が起こったのかわからなくなりました。


私は、この時、落下により、右膝前距腓靭帯を断裂してしまったのです。


こうして、私のチアリーダーは終わりました。

本当に活動できたのはほんの少し、手術と入退院、リハビリばかりの学生生活でした。


社会人編に続きます。