こないだすべりこみで「若沖VS蕭白」を観に行く。
国立博物館はけっこう楽しい。
30分待ちの行列に並ぶ。暑いので日傘を貸してもらった。
やっと入り、すごい人混みの中でやっとこさっとこ回る。
画も像ももちろんすばらしかったけれど、1番楽しみにしていたのはもちろん器!
とくに本阿弥光悦。
生で観るのは初めてだったから。
ドキドキしながら、人をかきわけ近付く。
光悦は独特の強烈な個性を見事に表現していた。
観た瞬間息が止まったのは、長治郎のなんとか寺という銘の入った器!なんとも言えない絶妙な赤みがかったベージュの肌。輪花まではいかないけれど、茶碗の縁が花のように開き気味になっているあの形。長治郎は光悦よりも内に個性を秘めてる感じ。光悦のような派手さはないけれど、でもあの器は神秘的なまでの存在感があった。「欲しい!」と心底思った。
それから、光悦の「七里」という銘の黒楽茶碗。そこら辺の骨董市で見かける黒楽はボテボテしていて、そこまで魅力を感じていなかった。でも、この器はシャープなラインを保ちつつ奥深い黒をしている。2度目の絶叫。小さい声でだが、「きゃー」とか「ひょえー」とか言いながら、瞼にしかと焼き付ける。「時雨」という光悦の器もすてきだった。
あの天才二人の楽茶碗を見てしまったら、普通の楽茶碗ががらくたに見えてしまう。それはとても大事なことなのだそうだ。
眼を養うということ。
理屈や知識を超えて、そのものが持っている美を見抜く眼。
骨董について教えてくださる先生は、美術館や博物館ではさっと巡りながら、自分で「この作品は好き」「嫌い」「面白い」「イマイチ」…と観ていくだけで、眼を養うことになるとおっしゃっていた。解説はじっくり読まなくてもいい、自分がそう感じたものを覚えておきなさい、と。
すごくそれはよく分かる。
余計なものなしのまっさらな眼。
その時判断した時の自分の価値基準。
もちろん正解はないし、好みも影響するけれど、本当の美を持っているものは自ずと目には見えない普遍的な何かをちゃんとまとっているから。
その何かをしっかり見えるように、美しいものをもっともっとこれからも観たい!!
おまけ。
今日のおやつは「朝摘みトマト」という和菓子。トマト味のあんが入っているのだ!
これがけっこうおいしい。
緑の印判小皿に盛って。