昨年の秋ごろに新潟へ旅行に出かけていました。
美味しいお米やお酒をいっぱい堪能し、その翌月には妊娠発覚、というタイミングでしたので丁度良かったと思います。

本当にどこへ行っても何を食べても楽しかったのですが、
そのうちの一つにとても印象的だった施設がありました。

それが柏崎市にある「柏崎さけのふるさと公園」というところです。

まだまだ秋の初めであったのでピークではなかったのですが、それでも鮭の遡上の季節だったので
運よくその姿を眺める事ができました。
鮭について見聞を得ることもそうですが、鮭の養殖を目的として整備された施設であるため会館のそばには谷根川から人工的に作られたガラスで覆われた河川敷があり、さらにその向こうへは海へと続く小さな河口がありました。


川を下れば広大な日本海が広がっていて、入り口はほんの数メートルにも及ばないところなのに数年後に戻ってきて
人間ですら躊躇する急な川の流れに逆らって泳ぐ姿はまさしく生命の躍動というものを感じられました。







そして、その生命が呆気なく終わる姿も目にすることが出来ました。


ドッという鈍い音。
あれだけ命に満ち溢れていたはずなのに、太い木の棒で殴られて川から引き上げられた鮭の姿はほんの少し痙攣するに留まるだけで
腹から卵ないし精子を抜かれ、分別されていく様は事前に案内板で知っていはずなのに少なからずショックでした。





仮にここで何もされなかったとしても、産卵を終えた鮭は一生を終える訳ですから

可哀想だ、と思う気持ちはお門違いではある気がします。


それどころか、一生を終えた鮭に対してもそのまま廃棄されるわけではなくきちんと加工品などにされて活用されている事を知りなんとなくホッとした気持ちでさえいます。






村上の鮭も美味しかったです。
























以下ちょっとダウナー入ります。







今、不謹慎ではありますが自分はものすごく鮭になりたい気持ちです。

どうせ帝王切開で腹を捌くのなら、仮に帝王切開でなかったとしても、無事に赤子を取り上げられた後はそのまま一生を終えてもいいかなと思っています。


だってこのまま自分が母親以前に人間としてもまともに生きていけるか不安でしょうがないです。

鮭のように命を終えた身体が何かの得になるわけでもないので、実質鮭以下の存在な気がしますが。


社会的生物に生まれた以上仕方のないことだとしても、産んだ後ですら、むしろこれからとても長い期間責任がつきまとうのはとてもしんどく思えます。

周囲の目に晒され、比較されながら生き続けるぐらいなら、さっさと骨の髄まで食べられて何かの糧になれたらそれで本望です。


頑張りが足りない、生きていればなんとかなる、なんてキラキラした思考を抱くにはもう若くないですし、それ以上にいっぱい辛い思いを経てしまいました。


赤子が生まれて、今から必死に生きようとする姿を見たら考えが変わるかもしれません。

その子のために自分も生きよう、なんて思える日も来るかもしれません。

ですが今は、ちょっと無理かもしれません。