死とは、本当に悲しいだけのものなのか? | 骨道士 成木海次郎のブログ

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消えていた【骨感覚】を取り戻し、カラダから自分の潜在能力を発動させて、自分自身を最大限にコントロールし才能を発揮する。
それが【骨道】。その真髄をお伝えします。



今回は、


思いっきり個人的なハナシ。


今日は、親父の命日。


そして、


昨年末から近しい方が立て続けに亡くなった
今日この頃。


自分も今年で42歳になる厄年の身も相まってか、


最近、 死について考える。


親父が死んだ時、


わたし自身、


実はそんなに悲しくなかったのを覚えている。


もちろんそれは、


悲しい現実を直視できない、ある意味では
逃避行動のひとつなんだと思っていた。


だが、


月日が経つにつれ、


悲しみという感情も、それなりに味わいきってから


やはり、


そんなに悲しくはなかったという感覚が再燃してくる。


ただむしろ、


そのリアルタイムでは、


実の父親の死を、


そんなに悲しんでいない自分に対して


不信感が芽生えたのもまた事実。


でも、


そんなこんなをひと通り体感してきた今は、


やっぱり


親父の死は、わたしにとっては


悲しい事柄ではなく、


大きな気づきと課題を与えてくれた
ひとつの出来事でしかないと、


そう思えるのです。


少なくとも、


死ということと、向き合う機会を与えてもらえたこと。


そして、


親もただのニンゲンであることを


教えてもらえたことは間違いないこと。


死 そのものが、悲しいものなのではなく、


わたしがどう感じるか?


それが大事。


でも、


結局 死とは、


起きていた人が、寝ることと同じなんじゃないかなと思う。


それが、


寝る時間になったから寝床に向かい、寝るのか。


はたまた


疲れ過ぎて、急にそこらで寝てしまうか。


本当に、


ただただ、それだけのような気がするのです。


そんなことを妄想しながら、


親父が死ぬ直前に食していたであろう、


ビールと焼きそばを供えながら


しみじみと、そう思うのです。