主人の思いをお手紙にして預かっているので、ここで公開させていただきたいと思います。


また、お世話の抱っこはしても抱きしめることを毎日してなかった後悔が私にはあるので、このブログをご覧になられてる方はぜひ、大きくなったお子さんであっても抱きしめてあげてもらえたら幸いです。


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ちびらの人生に関わって下さった皆さまへ



ちびらは2023年9月15日に10歳でこの世から旅立ちました。


肢体不自由で、コミュニケーションも取れず、目も見えていないため、日常生活の全てにおいて介助が必要でしたが、奇跡的に気管切開や胃ろうといった医療的ケアが必要となることもなく、持ち前の笑顔でたくさんの方に愛して頂きました。


ちはびらは第一子の長女となります。


お腹の中にいるときから成長に気になる点が見られ、大学病院で産まれました。


出生時の体重は2380グラム。産まれてすぐに検査を受け、医師の先生から「ミトコンドリア病の中のピルビン酸脱水素酵素複合体欠損症(PDHC)で重症です」といった旨の説明がありました。


聞き慣れない病気ですが、簡単に言うと、身体の成長に必要な炭水化物を体内でエネルギーに変換することができず、脳や筋肉の発達に著しい影響が出る病気(難病)です。


日常のエネルギーは脂質で補う必要があり、根本的な治療方法もなく、成長していく段階でどのような症状が出るのか全く予想できない、明日まで生きることができるかも分からないとのお話でした。先生の説明を聞いた時の衝撃は今も忘れることができません。


しかし、出産直後で肉体的にも精神的にも弱っていた妻を支え、ちびらを育てていくために出来るだけのことをしようと決意しました。


出生後は大学病院のNICUで過ごしました。


オリーブオイルを混ぜた母乳を飲ませる必要がありましたが、小さい身体で産まれたこともあって飲み込む力が非常に弱く、一度飲んでも嘔吐することが何度もありました。


1グラムでも体重が増えて欲しいという想いで、必死でミルクを与えていたことを思い出します。このような生活が2カ月ほど続き、なんとか退院することができました。


難病を持つ我が子と自宅で過ごすことに不安と戸惑いを感じてましたが、祖父母の協力も得つつ、健常児の成長と比べると非常にゆっくりとしたスピードではありましたが、ちびらは自分なりの速度で成長していきました。


結婚前から妻と私は同じ会社で働いていて、結婚後も妻はフルタイムでした。


難病で障害を持つ子どもの母親がフルタイムで働くことについて不安がありましたが、障害福祉において日本で最先端の市に住んでいたこともあり、こども園に預けながら働き続けることができました。もちろん勤務している会社の所属部署の理解があってのことです。


難病のちびらを迎え入れてくれたこども園や理解を示しえて頂いた会社の所属部署の方々には今でも感謝しています。


こども園の卒園後は支援学校に入学しました。支援学校では先生方が試行錯誤しながら、ちびらが楽しく、のびのびと過ごすことができ、更なる成長も促すような授業やイベントを準備して下さり、親として感銘を覚えました。


また、夏休みや冬休みの学童利用や地域交流の一環として近隣の小学校に遊びに行くことを通して近所の子供たちにちびらを知ってもらうことができました。近所での買い物中に知らない小学生のお子さんから「あ、ちびらちゃんだ!!」という声を聞いたりして、親としてとても嬉しく思ったりもしました。


学校の他には、デイサービスやリハビリの先生にも大変助けて頂きました。本当に多くの方々にちびらの生活や成長を支えて頂き、また、その時々の成長における悩みについて一緒に考えて下さったり、アイデアを出して下さったりなど、家族に対しても暖かいサポートを頂きました。


さらに、旧来の友人やちびらや他の子どもたちを通して家族ぐるみでお付き合いさせて頂いた多くの友人家族からも、障害児であるちびらを当たり前のものとして受け入れて下さり、一緒に集まってパーティーを開催したり、時には家族ぐるみで旅行に行ったりなど、たくさんの楽しい思い出を頂きました。


10歳という年齢は、健常者にとってとても短いです。しかし、ちびらの持って生まれた病気と重症であることを考えると、ちびらは多くの方々と繋がりを持ちながら、ちびらなりに深く濃い人生を全うできたのではないかと思っております。


両親だけではここまで到達することは出来ませんでした。

これまでちびらに関わって下さった全ての皆様のお陰です。ちびらの家族として、ここに改めて感謝申し上げます。


余談となりますが、昨年他界したちびらの叔母(妻の妹)が、生前ちびらを非常に可愛がっていました。ちびらは今頃叔母に会うことができ、ふたりで仲良く過ごしていることと思います。


取り留めのない文章となりましたが、ちびらに関わって下さった皆様への感謝を込めて結びとさせて頂きます。


本当にありがとうございました。




2023年9月15日6時16分ちびら(10歳)の死亡が確認されました


午前0時0分の時点でいつもと変わりなく息をしているのを主人が確認しており、その後午前4時45分に息が止まっているのを主人が確認、阪大に救急搬送後、死亡が確認された次第です。


なんの前触れもなく元気に過ごしてました。


自宅で亡くなったということもあり、一旦警察署の霊安室に運ばれ、さらに再度大学病院にて死因を検視することになりました。


大学病院での死因確定後、また警察署へ運ばれたちびらを葬儀会社の方とともに迎えに行きました。


死因の結果は「喀痰吸引による窒息」


つまり、エホッと咳を出す力が気づかない間に弱くなってきてたようで、痰の居所が悪く窒息してしまったとの説明でした。


検案書には、苦しかった時間は短時間とも書かれており、ちびらにとって救いだったなと思っています(ちびらの顔も穏やかでした)。


昨日までいつもどおり元気に過ごしてはしゃいでたので、あまりにも突然のことで気持ちが追いついてません。


ただ、出張が多い主人が自宅にるときに主人の隣で亡くなったことや、苦しまずお空に行けたこと、また去年亡くなりました私の実妹がちびらのことを大好きだったので、きっと二人で楽しく遊んでいるであろうことが心の支えになっています。


ちびらが生まれて大変なこともたくさんありましたが、一方でちびらのおかげで私自身が成長することができたこと、またちびらを通して本当に沢山の方々と良い縁を結ぶことができました。


私の人生をとても深く豊かなものにしてくれて、ちびらには感謝の気持ちでいっぱいです。


当たり前ですが、家の中のあちこち(特に台所)にちびらに関連するものが多くあり、またちびらが良く遊んでいたおもちゃを不意に鳴らしてしまい、ちびらが遊んでいた映像が思いだされ嗚咽がでますが、家族とともにちびらを偲んで行きたいと思いす。

未だ、妹が亡くなったことに実感がなく、どこか電話が繋がらない外国に留学しているんじゃないかと思っています


こないだなんて、面白いマンガを見つけたから妹にLINEで教えなきゃってLINEを立ち上げそうになったくらい


母親も私と同じ感じなようです


ミニラ(小2息子)は、死をどこまで理解しているのかわからないと思ってましたが、残された義理の弟(妹の旦那さん)をかわいそうに思い、号泣したのを見て、彼なりに想像を働かせて人を思いやる気持ちが育っていることに成長を感じました

妹の優しかった性格が息子にも受け継がれてるのかも

息子は義理の弟が大好きなので、「僕が妹のかわりになってにぃにのそばにいる」「にぃにがほしいものを僕が買ってあげる」といじらしいセリフを言ってましたが、火葬場の売店で、にぃにに自分の好きなものをねだっている息子を妹がみたらきっと「どないやねーん、まぁええけど」と言ってたと思う


話は変わって、妹がどんな風に頑張ってきたか、最後がどんな風だったかお伝えしたくて。。。

長文になりますがお付き合いいだけたらと思います

また、私は医療関係者でもなく、妹や母からの伝聞もあるため、正確じゃないこともあると思いますが予めご了承ください


2014年2月 妹(33歳)大腸癌(原発)発覚 

・妹が結婚して3年目くらい。血便が出てたけど痔だと自己判断で診察を先延ばしして、母親に怒られ、渋々受けた大腸カメラで発覚。この日は雪が降っていて、妹に付き添ってやれず、1人で告知を受ける。


2014年3月 妹(33歳)大腸癌の外科手術(腹腔鏡)

手術結果、浸潤が深くリンパに飛んでるのも発覚。

そのときの私の気持ちはというと、もっと早く受診してたら。。。でも大腸癌は予後がいいし。。。でも浸潤深い?リンパに飛んでるってどういうこと?


2014年6月 妹(33歳)肝臓転移 肝臓の外科手術(腹腔鏡)
・肝臓に転移してることが発覚。肝臓は血液量も多く、癌が血液に乗って他への転移が心配。
今回、癌の位置的に簡単ではない手術のため、(当時、可愛がってもらっていた)看護師長が(妹と親しい)担当医師に開腹手術にしてほしいとお願いしたが、医師が「僕を信じてください」と腹腔鏡で押し切ったとの話を後で伺って、妹は嫌がってはいたけど、妹に思い入れのある方たちが一生懸命妹を助けようとしてくれてるのがわかり、この病院の選択は間違ってなかったかなぁと家族で話してました
・肝臓に転移した癌のことを調べていくと、なかなか厳しいことしか書かれておらず、妹には「大丈夫」とは言っていたものの「ヤバいかも。。。」ステージ4って。。。と周りは落ち込んでましたが、幸いにも肝臓にできた癌はでっかいの一個(ただし、血管の近く)。それを希望に手術に挑みました。結果、きれいに取り切れ成功。

2015年1月〜6月 妹(34歳)抗がん剤
・当時、妹は看護師としてフルタイムで働いており、看護師長以外には内緒にしていたため、抗がん剤の副作用を圧して働いていました。さすがに抗がん剤の日の次の日はダウンしてたようですが、吐きながらもしっかり働いてたようです。

2016年1月 妹(35歳)大腸癌再発 大腸の外科手術(開腹)
・肝臓手術からヤレヤレと思っていたのに、定期受診で大腸癌の再発が発覚。このときに大腸癌手術の担当医からたちの悪い癌だと言われる。
大腸癌の再発なんて。。。浸潤がそれほど深かったのか。。。最初の切り取りが甘かったのか。。。

2016年6月 妹(35歳)腹水 卵巣の摘出手術(開腹) 腹膜播種
・妹のお腹に水がたまり苦しがる。水を抜くもすぐたまる。妊娠中のような妹を見て、また、腹水がたまっているという言葉を聞き、2回目の「ヤバいかもしれない」と思いました。診察の結果、卵巣に転移発覚。卵巣を摘出することになったのですが、将来、妊娠を考えていた妹の悲しみは深く、予め受精卵を保管していたので「元気になったらいつでも子宮に戻せるから大丈夫や」としか声をかけれなかった。
妹は抗がん剤をする前に受精卵を保管しており、妹は自分で調べて動いていました。病院側からはなんの提案もなかったので、闘病は病院任せではなく、自分自身がしっかり考えて選択していかなくてはいけないんだと痛感した記憶があります
・卵巣に転移があり、卵巣を摘出したとの告知は、看護師をしていた妹にも酷な話で、妹から「1人では聞きたくなかった、誰かが一緒の状態で聞きたかった」と聞いて、大腸担当医師にこれからは家族の誰かが一緒のときに告知を希望したいと伝えましたが、それが担当医師の気分を害したらしく(おそらく外科部長の自分が執刀しているのに、なんでそんなとこまで気をつかわなあかんねんっていうことみたいで。。。)、私と喧嘩になりました。
喧嘩しても妹のためにはならないので、したくはなかったですが、今後、同じことで妹を悲しませたくはなかった。
・その後、卵巣転移だけでなく、腹膜播種であることもわかり、もう一般治療では打つ手なしの状態に。。。
このときも「もうダメかもしれない。。。」と。。。でも本人は全く生きることを諦めてないし、希望になることを探そうと探しまくった結果、岸和田に腹膜播種でも手術してくれる医師を見つけました。
ただ、禁忌の手術であるため、この手術をした後、他の病院では妹を診てもらえない。
だからといってこのまま死を待つ(余命一年半と言われた)のも嫌だし、とりあえず話だけまず聞きに岸和田に行きました。
・医師と話をしてみたところ、「希望を持っていいよ」と言われ、家族みんなが沈みかけてたところをこの言葉で救われました。
そして、この先生に妹の命を託すことに。
・また外科手術だけではなく、この頃からケトン食治療もしていくことにしました。
治験治療のため、大学病院の指導の元、厳密にケトン費を計算しての食事作り+旦那さんの食事作り+フルタイムの仕事。
なおかつ、ケトン食は脂まみれの食事なため、常にムカつきや嘔吐も伴うもので、医師からは「働きながらは絶対に無理」と言われてましたが、ほんと、すごい根性で乗り越えて、この治療期間は2016年3月から2018年10月までやってました。
ケトン食治療をしていた妹は、同じケトン食治療をしている私の長女(ちびら)を「めっちゃすごい!」と褒めてくれてました。

2016年9月 妹(36歳)腹膜播種手術(開腹) 子宮摘出
・岸和田の病院にて、腹膜播種手術をしましたが、いざ開腹したものの播種が見当たらず、転移の可能性がある子宮を摘出することに。
手術のときに尿意の神経?が切れてしまったらしく、尿意を感じない、おしっこを自力で出すことができなくなりました。
術後のボロボロの妹を見て、「もう、生きてくれるだけでいい」と強く思った記憶があります。
初めて弱気になった妹、「もう働くことはできない」と言いました。
そんな妹に「まだ諦める必要なんてないやん。導尿(3時間おきに尿道に管を挿入しておしっこを排出)しながら働いてみて、無理だと思ったらやめたらいいやん」と励まし、妹はまた仕事に復帰。
でも、子宮がなくなったことにより、自力出産ができなくなった妹。このときも「元気になれば代理出産があるから大丈夫」としか言えなかった
・この頃から癌に良いと言われている陶板浴に通いはじめる。そして先を見越して訪問医師の手続きをし始める。
2017年6月に私が流産。火葬場で妹は我が事のように泣きじゃくっていたのは思うところがあったんだと思う

2018年2月 妹(37歳)大腸再々手術(開腹) ストマ
・また大腸に再発です。妹がとても嫌がっていたストマ(お腹に人工肛門)をつけることに。
「肛門がお腹にあっても、それで生きれるならその方がいいよ。生きてさえいてたらなんとかなる」と励まし、一緒に温泉旅行にいけるまで気持ちを持ち直しました。
仕事は一切辞める気もなく、バリバリ働いて、妹の同僚の人は気づいてなかったと思います。
・こんな元気なのに訪問医師から、自宅近くの緩和病院を紹介される。後に妹の治療や緩和ケアで大変お世話になり、妹が最後に過ごした病院となる。
ただ、禁忌の手術をしたことや後述するラジオ波焼灼療法等をしたリスクのかたまりである妹の受入は、病院側としては難しいものであり、医師からも「そんな都合のよいことはないで」と言われてました。いざというときの治療の受入先が見つからないことを妹は不安がってましたが、妹の闘病生活が先生から見てもすごい頑張りだったようで、最終的に「うちで最後までフォローするから安心して」と言ってもらえました

2018年10月 妹(38歳)仙骨ラジオ波焼灼手術 
・腹膜播種だと言われてから2年ほど経ちました。卵巣を摘出した際、「仙骨付近で癌細胞を見つけて見えるものは取りました」と聞いてはいてましたが、やはり腹膜播種、尾てい骨らへんを痛がり、検査した結果、仙骨付近に転移しているのが発覚。
打つすべなしの状態のところ、妹が自分でラジオ波焼灼術をしてくれる病院を探し出し、仙骨も対応可能とのこと。
難易度が高い手術であったため、医師も学会で発表したらしい。
この病院のおかげで、癌が次々出てきてもラジオ波焼灼術で対応することができるようになり、気持ち的に安心感が生まれました。

2019年8月 妹(38歳)多発性肺癌ラジオ波焼灼手術 
・肺にいくつかの癌が見つかる。でも焼灼してもらえる安心感がある。心配事は副作用と治療費(当時は保険がきかなかったので70万/回)。
副作用は若いので乗り越えていけるし、治療費も働いてたらなんとかなる!
こうやって画期的な治療ができるまで、のらりくらりかわしていこうとなりました

2020年1月 妹(39歳)肺癌ラジオ波焼灼手術 

2020年5月 妹(39歳)肺癌ラジオ波焼灼手術

2020年8月 妹(39歳)肺癌ラジオ波焼灼手術

2020年12月 妹(40歳)肺癌ラジオ波焼灼手術

2021年1月 妹(40歳)肺癌ラジオ波焼灼手術

2021年4月 妹(40歳)肺癌ラジオ波焼灼手術

2021年6月 妹(40歳)肺癌ラジオ波焼灼手術

2021年7月 妹(40歳)
・相変わらず仙骨付近に痛みがあり、痛み止めでは効かなくなってきたため、麻酔を使うようになりました。そのため、看護師という仕事を辞めることに。でも今までと違って、迷いなくスッキリと決断できてたように思います。
・さぁ、これから旅行や食べ歩き等を楽しもうかと思っていた矢先に、膣から便(水便)が大量に出てくる事態になってしまいました。
どうやら、ボロボロの腸が破れてしまい、そこから膣に流れていってしまっている様子。
コントロールもできず大量に出てしまう水便
おむつも間に合わず、体の下には給水シーツを引いて寝たきり状態。
便により膣付近の肌が荒れてしまい、座ることもできず、いつもシャワーを浴びては泣いているとのこと
一度、お家に会いにいったとき、汚れてしまうからか下がおむつだけ履いてる状態の妹を見て。。。家から一歩も出ることができない、むしろ家の中でもほぼ横になって痛がってる妹を見て、「妹の人生、こんな。。。こんな。。。終わり方なの?仕事も辞めてこれからってときに。。。」と思い、なんて声をかけて良いのやら。。。
・この状態を終わらせるには一つ方法があり、大腸ストマの上に小腸ストマをつくるという方法。
そうすれば、水便は大腸まで行かず、小腸ストマで排出されるから膣から出ることはないという。
ただし、穴が空いてる場所によっては、小腸を短くしたとこにストマをつけるため、短い小腸では栄養を充分吸収できず、やせ細っていくので、点滴を流すが、すぐに小腸ストマから排出されるため、その排液処理に終われ、日常生活もままならないとの説明を妹から受けた
「お姉ちゃんならどうする?」と聞かれ、「正直、今回はわからない。ただ、排液処理に追われたとしても今の生活よりマシになるのではないか」と答えました。だってそれぐらい今の生活は、かわいそすぎる生活を送っていたから。。。

2021年10月 妹(41歳)小腸ストマ手術(実施せず)
・心配していた小腸にストマをつける必要もなく、穴の空いた腸をつなぐことに成功。これにより膣から便も出ることもなくなり、外出もできるようになりました!春には私と母とこども達で石川県に旅行に行くことができるまで回復!すごい!!

2022年4月 妹(41歳)肺癌ラジオ波焼灼手術(5㌢の肺がん)
・この大きな癌を焼灼したことが後に、ボロボロの体へ大きな影響を与えることに。。。
焼灼後の穴から膿が出てきてしまうようになってしまいました
そのせいで高熱が続いたりする日々

2022年8月 妹(41歳)腎臓ステント手術 腎臓癌による尿障害
・腎臓の管に癌が巻き付き、排尿できなくなったため、ステント手術をしました。このとき、2つある腎臓の1つは機能を果たしておらず、動いている腎臓のステント手術が上手くいかなかったら透析という状態でした

2022年8月 入退院繰り返し9月末退院(9月30日は妹の誕生日)
・ご飯を食べても吐いてしまう等(腸閉塞をおこしかけてたりで)、栄養が取れないため、入退院してた。痛みもあり、ほぼ眠れず、面会も5分間なため、死への恐怖と寂しさがつのる
入院するたびに病院側から「もう、退院はできないと思う」と言われながらもご主人が待つ自宅に気力で帰り、外食等楽しんだらしい
お家では介護ベッドはあるものの、痛さで体の置き場もなく、ご主人と座ったまま仮眠を取ってやり過ごす毎日だったらしい
この頃の私は、会社から帰宅する際、毎日妹に電話をかけられたけど、怖くて。。。妹の病状を真正面から受け入れることができなくて。。。妹の闘病から目をそらしてしまっていたと思う
母親から妹の状態を聞くのが精一杯でした

2022年11月1日 (42歳)あまりの息苦しさに退院できない覚悟で緩和病棟へ入院

以上が妹の約8年に渡る闘病歴です

今回、ブログで文字に起こすことは気が重くて、なかなか書けなかったけど、今年中に書けてよかった