つい先日、私の身近であった

あるひとの、死について、少し。



父の葬儀以来の

お通夜に参列することになって


生きること

生かされること

生かされてしまったこと


というところで


色々と、思うところがたくさんあって


人の死は、最期は

そして受け止め方は

本当に人それぞれだと思って


誰の為の、という部分で


生きたい、と

生きていてほしい、は

違うんだなぁって

強く感じてしまった。


もっと……と

やっと……は

紙一重なのかもしれない、多分。



またCoccoの話題になるけど

「海辺に咲くばらのお話」

という歌があって



“ここまで息をつないで

力の限り

ここらで許されるかな

もういいかな”


“さよなら

呼吸を止めて

最後の力で

特別

ひどくもないよ

凪いだだけさ”



すごく、重なってしまって

……許されたんだなぁ、と思って


凪いだだけ。


という歌詞に


ああ、きっと

凪いだだけなんだって


心から

手を合わせたいと思いました。



…もっと、が終わったんですね。

やっと。



うちの父もきっと

凪いだだけ、なんだろうな。


かといって

後悔の気持ちは消えるわけでもなくて

まだひとりで

小さなことにこだわってる。

先生や看護師さんは、私が感じてることを、小さなこととは思いません(´ー`)と言ってくれたけど

なんでこうしなかったんだろう、とか

あの時こうしてあげれば

よかったのかもしれない、とか。


私はもっとちゃんと

話を聞いてあげるべきだったんだろう、

とは思ってる。

死にゆく人の心に寄りそう 医療と宗教の間のケア (光文社新書)


っていう本を読んだからかなぁ真顔いい本だった…)


今回のことでは

グリーフケアについて

追記したい出来事もあったりして。


………ふぁっ不安!!!


↑心の中で、本当にこんな反応をしてしまった。






つづき