第3章 私は小説家?
翌日、出社して自分のデスクがある部屋に入っていったところ、女子社員が数人集まって井戸端会議をしていた。噂話はあまり好きではないので、巻き込まれないよう遠巻きにしながらデスクに近づこうか、と考えていたら女子社員がいっせいにこちらを見て、人の価値を値踏みするような好奇の目を向けてきた。咄嗟に「おはよう!」と声をかけ、詮索されないよう身構えつつ、急いで自分のデスクに着いた。背中に視線を感じつつも、わざとらしく無視を決め込んでパソコンの電源を入れたり鞄から書類を出したりしていたら、背中のほうでひそひそ声が途切れ途切れに「あく・・・ぼうし・・・Iさん・・・」と聞こえてきた。「灰汁?」「帽子?」なんのこっちゃ?そこに彼女たちの直属上司が入ってきたため、彼女たちはしかたなく持ち場に戻っていった。それぞれが後ろ髪を引かれつつ。。。
他のフロアで行われる会議に向かう途中、いつも上役のご機嫌ばかり気にしている総務部長に階段の踊り場で出会った。軽く会釈をして通り過ぎようとしたら、「I君、ちょっと」と呼び止められた。会議の時間が迫っていたのであまり話をしたくはなかったが、しかたなく振り返り「なんでしょうか」と答えた。「君は副業に関する職務規定を知っていますか?」なんでこんなシチュエーションで「副業」なのかわからなかったが、大まかには理解していたのでその旨を答えたところ、「例えば、プライベートな時間に小説を書いて、それがたまたま売れた場合の印税はどうなると思います?」と聞いてきた。会議の時間が迫っている私はちょっといらつきながらも、「確か、プライベートな時間の活動で、かつ、当社の利害と関係のない場合は問題なかったと記憶していますが、それが何か?」と逆に問いかけてみた。おもむろに体の向きを代えた総務部長はなぜだか誇らしげに、「そうなんだよね。そういう場合、特に職務規定違反にはならないんだよね。ただね、I君。当社はIT業界のなかでも数少ない独立系、すなわち、どの色にも染まっていないと言う、クリーンな企業イメージがあってだね、このイメージを壊すようなケースだと『利害関係』に関する条文に抵触する可能性もあるんですよ。I君には是非ともそのあたり、十分に理解しておいて欲しいですね。」と言って、こちらの反応も見ず、さっさと階下に降りていってしまったのである。なんとも狐につままれたような、わけのわからない会話を置き去りにされ、しばし呆然としていたが、会議の時間が迫っていることを思い出し、2段飛びで階段を駆け上がったのである。
ある日の夕方、普段滅多に口を聞かない上司が、なにやら下衆な考えをそのにやけた顔の下に持ちながら私のデスクに近づいてきた。「I君、たまには仕事の後の爽快なビールでもどうだい?」ん、爽快なビール?この人でもこんな表現をするのか、といった誘いになにか胡散臭さを感じたが、今日も特に用事があるわけではなし、ましてや普段つきあいが悪いことに若干の引け目を感じていた私は、「それでは、少しお付き合いします。」などとへりくだった答えをしてしまったのである。上司が連れて行ってくれたのは、意外にも銀座(とは言え1丁目、ほとんど新橋)のこ洒落た飲み屋であった。滅多に一緒に飲むことはないが、それでもたまに行く時は決まってチェーン店の居酒屋のはずなのに、今日に限って何かあるのだろうか。。。まずはビールで「お疲れ様!」という、サラリーマンの奇妙なお約束で始まったのはいいが、普段から仲が良い訳でもない二人ではなかなか会話も盛り上がらない。結局共通の話題と言えば仕事のことしかないわけで、しばらくは今私が関わっている仕事について、わかりきったことを話していた。ちょっと洒落た店に来たからには、美味しいつまみやお酒を楽しみたいところではあるが、件の上司は、ほんの数品、ありきたりのつまみとビールを頼んだだけで、味わうでもなく、ちびちびビールを舐めているだけであった。そろそろ日本酒に変えて、つまみも本日のお奨めとある「かわはぎの刺身」でも頼もうかと思っていた矢先、急に上司が口調を変え、下卑た薄笑いを浮かべつつ切り出してきた。「I君、君も色々準備やらがあるだろうから、休みを取るのであれば遠慮なく取ってくれていいぞ。なんなら今の仕事もしばらくは他の誰かに委ねても良いし。」何のことかわからず、「はぁ」とか曖昧に答えたら、下卑た笑いをさらに満面に浮かべ「君は謙虚だなぁ。その謙虚さが、あの表現のもとなんだろうねぇ。」とさらにわけのわからないことをのたもうているのである。その後、また仕事の話に戻り、会話は相変わらず、お通夜のような雰囲気で、ほんの小一時間しか店にいなかったのに、えらく疲れてしまった。帰り際、またまた下卑た笑いを満面にした上司は、何を思ったか、急に人の手を握り、「君のような優秀な部下を持って、私は大変うれしい!これもきっと今までこつこつとやってきたことが報われたんだろうなぁ。うん、うん。」と一人悦に入ってるではないか。さらに「I君、君もこれからいろいろ大変だろうが、頑張ってくれたまえ!こんな私でよければいつでも相談に乗るからな!あっはっはっ!」ときた。こちとら早く手を離したくて引っ込めようとしているのだが、両手でがっちりと握られた私の手は、ちょっとやそっとでは抜けないのであった。
サラリーマンにとって昼食は気分転換を行う大切なひと時である。しかし、噂話のおかげで、この日のランチタイムは無駄なひと時になってしまった。
普段は仕出しの弁当を一人で食べることが多いのだが、その日は昼前に同期の川田が突然やってきて、“昼食に付き合え”、と半分無理やり連れ出されてしまった。今日も仕出し弁当は注文してあったので、“これで450円が無駄になった”、とぶちぶち言っては見たものの、そこは同期、“それくらいケチるな!”の一言でかわされてしまった。ランチの取れる店で食事をした後、公園のベンチで他愛もない世間話をしていた時、唐突に川田が「お前なんだろ?」と聞いてきた。いつになく真剣な顔をした川田を見て、これは何かまずいことでもしたかと考えては見たが、これといって心当たりがない。その旨を川田に伝えると、今度は先日の上司が見せたような下卑た笑いを浮かべつつ、「そう隠すなよ。同期じゃないか。もう社内ではみんな知ってるぞ。お前があの芥木賞確実と言われている『某氏』だってことを。ただ、なんで素性を隠しているのかがみんなよくわからなくて、もやもやしてばかりいるんだ。で、どうなんだよ、その辺り。」「えっ、俺が『某氏』?『某氏』って、あの芥木賞間違いなしと言われてる?そんなの聞いたことないぞ!!」川田は下卑た笑いをますます激しくさせ、早く本当のことを言っちまえ、と言わんばかりの表情で黙っていた。私はもう一度「どこでそんな話になってるんだ?あれは森本じゃないのか?確かにマスコミの報道だとうちの社員なんだろうけど、古参でエリートって言ったら森本しかいないだろう。」川田はやっと下卑た笑いを隠し、「なんだ、知らないのか。最新情報ではエリートと言うのは間違いらしく、エリートになりそこねた奴らしいんだよ。ほら、お前の場合、10年前のチョンボがなければ今頃は森本より出世してたじゃないか。しかも、他にそういった奴はうちの会社では見当たらない。となると、該当者は必然的にお前になるんだよ。で、どうんなんだ?ここまで材料が揃えばもう種明かししたって良いじゃないか。」10年前の苦い経験に触れられ、少し機嫌を悪くした私は、川田を適当にあしらってオフィスへと戻った。
午後の仕事を今日も無難にこなして帰宅した私は、さっそくパソコンを使って例の件を調べ始めた。一昔前だとこういった調べものには手間隙が必要であったが、インターネットがここまで広まった今では、あっという間に調べることが出来る。本当に便利になったものだ。インターネットが広まり便利になったのは良いが、この手の話の場合、あることないことがホームページに書き込まれる。そうすると今度は情報の真偽を判断する能力が必要になってくる。インターネットが悪用されたり、問題を起こすのは、こういったパラダイムシフトについていけないことにも起因しているのだろうな、などと関係ないことも考えつつ、情報を整理した。
先日見たワイドショーから、『某氏』はてっきり同期の森本と信じ込んでいた私は、その日以降、極力この話題には近づかないようにしていた。だから、その後の展開はまるで知らなかったのだが、調べてみたところ、やはり会社はうちのことと報じられていた。さすがに社名はI社となっていたが、本社所在地だけではなく、設立の経緯や主要顧客に関することまで報じられており、社員であれば、すぐにわかるような情報がちりばめられていた。その後に続く情報は以前ワイドショーで聞いたものとは異なっていた。あの時は同期の森本を想像させるような、生え抜き、エリート、なんて言葉だったが、今回調べた結果は概ね次のようなものであった。
『某氏』はI社設立直後に入社した生え抜き社員で(ここまでは一緒)入社後10年ほどは若手にも関わらず、主要プロジェクトに携わり、中堅/ベテラン社員に負けぬ働きをしていた。その働きぶりは社内でも有名で、若手の中では『某氏』が出世頭になると噂されていた。しかし、あるプロジェクトにプロジェクトリーダとして携わったとき、『某氏』はとんでもない失敗を犯した。最初、『某氏』はある間違いに気づいた。しかしその時点では、その間違いが公になる前に自分で解決できると判断し、本来必要な報告を怠った。ところが『某氏』の予想に反して問題は複雑であり、あっという間にあちこちに波及していった。慌てた『某氏』はすぐに上司に報告したが、その時にはもう手の打ちようがない状況になってしまっていた。プロジェクトは一時中断し、社を挙げて立て直そうとした。が、問題の根は皆の想像を越えており、対策を打つには、時、既に遅く、結局プロジェクトは中止するしかなかった。I社は設立以来、順調に黒字経営を続けてきていたが、この年、この影響もあったのか、設立以来、初めての赤字決算となった。I社では、プロジェクトが上手くいかないケースは年に数件見られるが、主要メンバーが責任を取らされるケースはあまり見られなかった。それよりも次のプロジェクトにその教訓を生かし、今まで以上の成功を挙げることを要求する社風であった。しかし、この時は失敗の仕方がよくなかった。自分で解決できると判断したことをぎりぎりまで上司に報告しなかったため対応が遅れ、そのことが結果的にプロジェクト中止のトリガーであったと分析された。当たり前のことをしなかったという点は大変大きな問題として扱われ、結果として『某氏』は研究開発部門に配属となった。I社では体調を崩したり、成果の出ない社員は研究開発部門に移動させられることが多い。『某氏』は失敗の責任を取らされたのである。
ここまで調べて一息ついた。今でも思い出したくない、十年前の嫌な記憶。そう、私は十年前に重要なプロジェクトを失敗させてしまったのである。昼間、同期の川田に思い出させられ、心の奥底にしまっておいた苦い記憶を引き出されていたこともあり、これらの情報を調べているうちに息苦しささえ感じていた。
嫌な記憶のことはさておき、これらの情報を整理すると、どうやら『某氏』は私のこと、、、らしい。割と冷静に結論を出しては見たが、正直なところ今ひとつ実感がない。自分で小説を書いてもいなければ応募したわけでもない。だから実感がないのは当たり前なのだが、信じられそうな、どの記事を読んでも、それらはすべて私を示していて、どう贔屓目に見ても、私になってしまうのであった。私のような人間が他にいれば話は別だが、これらの記事が本当ならば、やはり私は『某氏』となる。いや、『某氏』が私ということか。ここまで考えて我に返った。失敗の件は本当にあった事だが、作品に関しては、自分で書いたり応募したりした覚えがないのだから、これらの記事はどこかが間違っているか、でっちあげの記事と言う事になる。有名人でもない私を『某氏』に仕立て上げて得する人間はそうそういないだろう。(皆無と思われる)そうすると、これらの記事は間違いと考えるのが筋だろう。ならば、いつまでも間違いのままということもないだろう。『エリート』と言われていた噂もほんの数日で覆されたようだし、あと2~3日もすればマスコミの言うことも変わるだろう。よくよく考えたらなんともふざけた話だし、こんな話を信じた川田もしょうがないな、と思いつつ、疲れた目を揉みつつパソコンの電源を切った。
私は週末になるとゴルフに行くことが多い。大抵は会員になっているコースに行くため、会社の同僚や友人とではなく、クラブに所属している他のメンバーと一緒に周ることが多い。その日も、顔見知りのメンバー3人といつも通りにラウンドしていた。5月のさわやかな天気の下、久し振りに良い感じで最初の3ホールを消化した時、よく一緒に回る金田さんが、「Iさん、すごいことになってますね。」と何気ない顔で問いかけてきた。先日Internetで調べてから数日が経ってはいたが、依然、噂の内容は変わっておらず、たまにこんな問いかけやら、興味ありげな視線を感じていたので、この時も曖昧に答えてやり過ごそうとした。しかし、ゴルフは4人1組でずーっと一緒に競技するスポーツであり、しかも、時間の大半は移動のため、意外と話をする時間がある。他の二人もどうやら噂を知っているようで、「そうそう、で、どうなの?」なんて興味津々に聞いてきた。さすがにこれにはまいった。ゴルフは技術も大事なスポーツだが、メンタル面も大変重要なポイントとなる。ましてや私のようなシングルにもなれないアマチュアゴルファーにとっては、ラウンドする時の精神状態がそのままスコアに直結することもめずらしくない。今日は久し振りに良いスタートを切れたのもつかの間、ここからはゴルフに集中することが出来ず、今年の最悪スコアを更新してしまった。「なんでこんな目にあわなければいけないのだろう。」帰りの車で思わず声に出してぼやいてしまった。
その後も鎌をかけられたり、直接聞かれたりもしたが、相手は常に私が『某氏』である旨の回答を得たいわけで、否定する答えには聞く耳を持っていなかった。そうなると答えたくても答えようがないわけで、仕方なく、どうとでも取れるような笑みを浮かべつつ曖昧に首を斜めに振るしかなかった。この騒ぎも『某氏』が無事(?)受賞し、本人が素性を明かせば収まるだろう。そうして私に降りかかった災いも解消されるだろう、と高をくくっていた。そうこうしているうちについに発表の日を翌日に迎えたのである。
翌日、出社して自分のデスクがある部屋に入っていったところ、女子社員が数人集まって井戸端会議をしていた。噂話はあまり好きではないので、巻き込まれないよう遠巻きにしながらデスクに近づこうか、と考えていたら女子社員がいっせいにこちらを見て、人の価値を値踏みするような好奇の目を向けてきた。咄嗟に「おはよう!」と声をかけ、詮索されないよう身構えつつ、急いで自分のデスクに着いた。背中に視線を感じつつも、わざとらしく無視を決め込んでパソコンの電源を入れたり鞄から書類を出したりしていたら、背中のほうでひそひそ声が途切れ途切れに「あく・・・ぼうし・・・Iさん・・・」と聞こえてきた。「灰汁?」「帽子?」なんのこっちゃ?そこに彼女たちの直属上司が入ってきたため、彼女たちはしかたなく持ち場に戻っていった。それぞれが後ろ髪を引かれつつ。。。
他のフロアで行われる会議に向かう途中、いつも上役のご機嫌ばかり気にしている総務部長に階段の踊り場で出会った。軽く会釈をして通り過ぎようとしたら、「I君、ちょっと」と呼び止められた。会議の時間が迫っていたのであまり話をしたくはなかったが、しかたなく振り返り「なんでしょうか」と答えた。「君は副業に関する職務規定を知っていますか?」なんでこんなシチュエーションで「副業」なのかわからなかったが、大まかには理解していたのでその旨を答えたところ、「例えば、プライベートな時間に小説を書いて、それがたまたま売れた場合の印税はどうなると思います?」と聞いてきた。会議の時間が迫っている私はちょっといらつきながらも、「確か、プライベートな時間の活動で、かつ、当社の利害と関係のない場合は問題なかったと記憶していますが、それが何か?」と逆に問いかけてみた。おもむろに体の向きを代えた総務部長はなぜだか誇らしげに、「そうなんだよね。そういう場合、特に職務規定違反にはならないんだよね。ただね、I君。当社はIT業界のなかでも数少ない独立系、すなわち、どの色にも染まっていないと言う、クリーンな企業イメージがあってだね、このイメージを壊すようなケースだと『利害関係』に関する条文に抵触する可能性もあるんですよ。I君には是非ともそのあたり、十分に理解しておいて欲しいですね。」と言って、こちらの反応も見ず、さっさと階下に降りていってしまったのである。なんとも狐につままれたような、わけのわからない会話を置き去りにされ、しばし呆然としていたが、会議の時間が迫っていることを思い出し、2段飛びで階段を駆け上がったのである。
ある日の夕方、普段滅多に口を聞かない上司が、なにやら下衆な考えをそのにやけた顔の下に持ちながら私のデスクに近づいてきた。「I君、たまには仕事の後の爽快なビールでもどうだい?」ん、爽快なビール?この人でもこんな表現をするのか、といった誘いになにか胡散臭さを感じたが、今日も特に用事があるわけではなし、ましてや普段つきあいが悪いことに若干の引け目を感じていた私は、「それでは、少しお付き合いします。」などとへりくだった答えをしてしまったのである。上司が連れて行ってくれたのは、意外にも銀座(とは言え1丁目、ほとんど新橋)のこ洒落た飲み屋であった。滅多に一緒に飲むことはないが、それでもたまに行く時は決まってチェーン店の居酒屋のはずなのに、今日に限って何かあるのだろうか。。。まずはビールで「お疲れ様!」という、サラリーマンの奇妙なお約束で始まったのはいいが、普段から仲が良い訳でもない二人ではなかなか会話も盛り上がらない。結局共通の話題と言えば仕事のことしかないわけで、しばらくは今私が関わっている仕事について、わかりきったことを話していた。ちょっと洒落た店に来たからには、美味しいつまみやお酒を楽しみたいところではあるが、件の上司は、ほんの数品、ありきたりのつまみとビールを頼んだだけで、味わうでもなく、ちびちびビールを舐めているだけであった。そろそろ日本酒に変えて、つまみも本日のお奨めとある「かわはぎの刺身」でも頼もうかと思っていた矢先、急に上司が口調を変え、下卑た薄笑いを浮かべつつ切り出してきた。「I君、君も色々準備やらがあるだろうから、休みを取るのであれば遠慮なく取ってくれていいぞ。なんなら今の仕事もしばらくは他の誰かに委ねても良いし。」何のことかわからず、「はぁ」とか曖昧に答えたら、下卑た笑いをさらに満面に浮かべ「君は謙虚だなぁ。その謙虚さが、あの表現のもとなんだろうねぇ。」とさらにわけのわからないことをのたもうているのである。その後、また仕事の話に戻り、会話は相変わらず、お通夜のような雰囲気で、ほんの小一時間しか店にいなかったのに、えらく疲れてしまった。帰り際、またまた下卑た笑いを満面にした上司は、何を思ったか、急に人の手を握り、「君のような優秀な部下を持って、私は大変うれしい!これもきっと今までこつこつとやってきたことが報われたんだろうなぁ。うん、うん。」と一人悦に入ってるではないか。さらに「I君、君もこれからいろいろ大変だろうが、頑張ってくれたまえ!こんな私でよければいつでも相談に乗るからな!あっはっはっ!」ときた。こちとら早く手を離したくて引っ込めようとしているのだが、両手でがっちりと握られた私の手は、ちょっとやそっとでは抜けないのであった。
サラリーマンにとって昼食は気分転換を行う大切なひと時である。しかし、噂話のおかげで、この日のランチタイムは無駄なひと時になってしまった。
普段は仕出しの弁当を一人で食べることが多いのだが、その日は昼前に同期の川田が突然やってきて、“昼食に付き合え”、と半分無理やり連れ出されてしまった。今日も仕出し弁当は注文してあったので、“これで450円が無駄になった”、とぶちぶち言っては見たものの、そこは同期、“それくらいケチるな!”の一言でかわされてしまった。ランチの取れる店で食事をした後、公園のベンチで他愛もない世間話をしていた時、唐突に川田が「お前なんだろ?」と聞いてきた。いつになく真剣な顔をした川田を見て、これは何かまずいことでもしたかと考えては見たが、これといって心当たりがない。その旨を川田に伝えると、今度は先日の上司が見せたような下卑た笑いを浮かべつつ、「そう隠すなよ。同期じゃないか。もう社内ではみんな知ってるぞ。お前があの芥木賞確実と言われている『某氏』だってことを。ただ、なんで素性を隠しているのかがみんなよくわからなくて、もやもやしてばかりいるんだ。で、どうなんだよ、その辺り。」「えっ、俺が『某氏』?『某氏』って、あの芥木賞間違いなしと言われてる?そんなの聞いたことないぞ!!」川田は下卑た笑いをますます激しくさせ、早く本当のことを言っちまえ、と言わんばかりの表情で黙っていた。私はもう一度「どこでそんな話になってるんだ?あれは森本じゃないのか?確かにマスコミの報道だとうちの社員なんだろうけど、古参でエリートって言ったら森本しかいないだろう。」川田はやっと下卑た笑いを隠し、「なんだ、知らないのか。最新情報ではエリートと言うのは間違いらしく、エリートになりそこねた奴らしいんだよ。ほら、お前の場合、10年前のチョンボがなければ今頃は森本より出世してたじゃないか。しかも、他にそういった奴はうちの会社では見当たらない。となると、該当者は必然的にお前になるんだよ。で、どうんなんだ?ここまで材料が揃えばもう種明かししたって良いじゃないか。」10年前の苦い経験に触れられ、少し機嫌を悪くした私は、川田を適当にあしらってオフィスへと戻った。
午後の仕事を今日も無難にこなして帰宅した私は、さっそくパソコンを使って例の件を調べ始めた。一昔前だとこういった調べものには手間隙が必要であったが、インターネットがここまで広まった今では、あっという間に調べることが出来る。本当に便利になったものだ。インターネットが広まり便利になったのは良いが、この手の話の場合、あることないことがホームページに書き込まれる。そうすると今度は情報の真偽を判断する能力が必要になってくる。インターネットが悪用されたり、問題を起こすのは、こういったパラダイムシフトについていけないことにも起因しているのだろうな、などと関係ないことも考えつつ、情報を整理した。
先日見たワイドショーから、『某氏』はてっきり同期の森本と信じ込んでいた私は、その日以降、極力この話題には近づかないようにしていた。だから、その後の展開はまるで知らなかったのだが、調べてみたところ、やはり会社はうちのことと報じられていた。さすがに社名はI社となっていたが、本社所在地だけではなく、設立の経緯や主要顧客に関することまで報じられており、社員であれば、すぐにわかるような情報がちりばめられていた。その後に続く情報は以前ワイドショーで聞いたものとは異なっていた。あの時は同期の森本を想像させるような、生え抜き、エリート、なんて言葉だったが、今回調べた結果は概ね次のようなものであった。
『某氏』はI社設立直後に入社した生え抜き社員で(ここまでは一緒)入社後10年ほどは若手にも関わらず、主要プロジェクトに携わり、中堅/ベテラン社員に負けぬ働きをしていた。その働きぶりは社内でも有名で、若手の中では『某氏』が出世頭になると噂されていた。しかし、あるプロジェクトにプロジェクトリーダとして携わったとき、『某氏』はとんでもない失敗を犯した。最初、『某氏』はある間違いに気づいた。しかしその時点では、その間違いが公になる前に自分で解決できると判断し、本来必要な報告を怠った。ところが『某氏』の予想に反して問題は複雑であり、あっという間にあちこちに波及していった。慌てた『某氏』はすぐに上司に報告したが、その時にはもう手の打ちようがない状況になってしまっていた。プロジェクトは一時中断し、社を挙げて立て直そうとした。が、問題の根は皆の想像を越えており、対策を打つには、時、既に遅く、結局プロジェクトは中止するしかなかった。I社は設立以来、順調に黒字経営を続けてきていたが、この年、この影響もあったのか、設立以来、初めての赤字決算となった。I社では、プロジェクトが上手くいかないケースは年に数件見られるが、主要メンバーが責任を取らされるケースはあまり見られなかった。それよりも次のプロジェクトにその教訓を生かし、今まで以上の成功を挙げることを要求する社風であった。しかし、この時は失敗の仕方がよくなかった。自分で解決できると判断したことをぎりぎりまで上司に報告しなかったため対応が遅れ、そのことが結果的にプロジェクト中止のトリガーであったと分析された。当たり前のことをしなかったという点は大変大きな問題として扱われ、結果として『某氏』は研究開発部門に配属となった。I社では体調を崩したり、成果の出ない社員は研究開発部門に移動させられることが多い。『某氏』は失敗の責任を取らされたのである。
ここまで調べて一息ついた。今でも思い出したくない、十年前の嫌な記憶。そう、私は十年前に重要なプロジェクトを失敗させてしまったのである。昼間、同期の川田に思い出させられ、心の奥底にしまっておいた苦い記憶を引き出されていたこともあり、これらの情報を調べているうちに息苦しささえ感じていた。
嫌な記憶のことはさておき、これらの情報を整理すると、どうやら『某氏』は私のこと、、、らしい。割と冷静に結論を出しては見たが、正直なところ今ひとつ実感がない。自分で小説を書いてもいなければ応募したわけでもない。だから実感がないのは当たり前なのだが、信じられそうな、どの記事を読んでも、それらはすべて私を示していて、どう贔屓目に見ても、私になってしまうのであった。私のような人間が他にいれば話は別だが、これらの記事が本当ならば、やはり私は『某氏』となる。いや、『某氏』が私ということか。ここまで考えて我に返った。失敗の件は本当にあった事だが、作品に関しては、自分で書いたり応募したりした覚えがないのだから、これらの記事はどこかが間違っているか、でっちあげの記事と言う事になる。有名人でもない私を『某氏』に仕立て上げて得する人間はそうそういないだろう。(皆無と思われる)そうすると、これらの記事は間違いと考えるのが筋だろう。ならば、いつまでも間違いのままということもないだろう。『エリート』と言われていた噂もほんの数日で覆されたようだし、あと2~3日もすればマスコミの言うことも変わるだろう。よくよく考えたらなんともふざけた話だし、こんな話を信じた川田もしょうがないな、と思いつつ、疲れた目を揉みつつパソコンの電源を切った。
私は週末になるとゴルフに行くことが多い。大抵は会員になっているコースに行くため、会社の同僚や友人とではなく、クラブに所属している他のメンバーと一緒に周ることが多い。その日も、顔見知りのメンバー3人といつも通りにラウンドしていた。5月のさわやかな天気の下、久し振りに良い感じで最初の3ホールを消化した時、よく一緒に回る金田さんが、「Iさん、すごいことになってますね。」と何気ない顔で問いかけてきた。先日Internetで調べてから数日が経ってはいたが、依然、噂の内容は変わっておらず、たまにこんな問いかけやら、興味ありげな視線を感じていたので、この時も曖昧に答えてやり過ごそうとした。しかし、ゴルフは4人1組でずーっと一緒に競技するスポーツであり、しかも、時間の大半は移動のため、意外と話をする時間がある。他の二人もどうやら噂を知っているようで、「そうそう、で、どうなの?」なんて興味津々に聞いてきた。さすがにこれにはまいった。ゴルフは技術も大事なスポーツだが、メンタル面も大変重要なポイントとなる。ましてや私のようなシングルにもなれないアマチュアゴルファーにとっては、ラウンドする時の精神状態がそのままスコアに直結することもめずらしくない。今日は久し振りに良いスタートを切れたのもつかの間、ここからはゴルフに集中することが出来ず、今年の最悪スコアを更新してしまった。「なんでこんな目にあわなければいけないのだろう。」帰りの車で思わず声に出してぼやいてしまった。
その後も鎌をかけられたり、直接聞かれたりもしたが、相手は常に私が『某氏』である旨の回答を得たいわけで、否定する答えには聞く耳を持っていなかった。そうなると答えたくても答えようがないわけで、仕方なく、どうとでも取れるような笑みを浮かべつつ曖昧に首を斜めに振るしかなかった。この騒ぎも『某氏』が無事(?)受賞し、本人が素性を明かせば収まるだろう。そうして私に降りかかった災いも解消されるだろう、と高をくくっていた。そうこうしているうちについに発表の日を翌日に迎えたのである。