『イタリア民話集 (下)』 | 手当たり次第の本棚

『イタリア民話集 (下)』


ここにおさめられたイタリアの民話には、まず、目立つ特徴がひとつあるように思う。
それは、他のヨーロッパの国の民話に比べ、商人が主人公となる率が高いということだ。

ふつう、王様王子様王女様といった王族であるか、あるいは逆に名もなき庶民であるかというのが、民話の主人公の特徴だと思う。
つまり、その間にいる裕福な商人の家庭はあまりスポットがあてられない。
他に、商人が活躍する民話か、それに類するものというと、私には、『千夜一夜物語』くらいしか思い当たらないのだ。
そして、なるほど、イタリアと、アラブ諸国は、いずれも貿易国であって、商人が活躍した地域ではないかと思い至った。言いかえれば、商人は物語を聞く人にとって、ヒーローとなり得る身近な存在という事なんだね。

一方、もうひとつの特徴は、ひとつひとつの民話を単独で読んでいたとしたら、多分目につかない。
また、すべてのイタリア民話に共通というのでもない。
ただ、しばしば、民話の結末が、無常なものなのだ。
たとえば、ふつうならハッピーエンドで終わりそうな流れなのに、めでたしめでたしではなく、その後主人公が富を失ったり、国を失ったりすることが示唆されるという風。
しかも、それが決してドラマティックではなく、さらりと流して付け加えられるのが特徴。
どうしてなのか、理由はわからないがそんな終わり方をする民話がいくつも入っている。

さて、下巻には、さらにもうひとつイタリアを感じさせられる特徴をもった民話が二編おさめられている。
それは、イタリアが(同じ岩波の『スペイン民話集』と違って)いくら妖精や鬼、人魚などの登場する民話をたくさんもっていようとも、やはりカトリックの総本山が置かれている国なのだなあ、という事だ。
『十字架像に食べ物をあげた少年』と『修道士イニャツィオ』が、それだ。
いずれも、清廉な(または無邪気な)信仰心を描いた物語なのだが、決して、神を大げさにほめたたえるとか逆に悪を非難するというのではなく、全く自然に、人の心に深く根ざした「キリスト者としての精神」をうたっているように思われる。
へたな聖人伝説などより、ずっと心をうつものだとも思う。
なお、前者は、名画『マルセリーノ』の原作ともいえる民話のようだ。

また、妖精民話ということでは、人魚の登場する物語が秀逸。
どうも、人魚の民話というと、イギリス諸島のものや、アンデルセン童話の『人魚姫』が浮かんでしまうが、どうしてどうして、地中海もまた、古代から人魚のすむ海域だったことを忘れてはならない。
ギリシア神話にも、サイレン(セイレーン)が出てくるではないか。
しかし、北の海のものとかわらず、人魚には哀しさがつきまとうようだ。
女の人魚のものも、男の人魚のものもあるが、どちらも、ひたむきさと哀しさに満ちた民話となっている。


イタリア民話集 下 (岩波文庫 赤 709-2)/イタロ・カルヴィーノ
1985年12月16日初版