『夢の守り人』 | 手当たり次第の本棚

『夢の守り人』

眠りというものは、小さな死である、という考え方がある。
たとえば、ギリシアでは、眠りの神と夢の神は、ともに冥府の神(つまり、死を司る神)の息子にあたる、とされている。

もしも、眠りがほんとうに死に準ずるようなものだとするなら、夢は何なのだろう?
荘子が語ったように、夢を見ている本人がリアルであるのか、それとも夢の中で遊んだ蝶がリアルなのか。

思うに、眠りが、死と生のはざまにあるものだとするなら、夢はそのはざまに通じる扉なのかもしれない。

さて、ものごとの「はざま」は、洋の東西を問わず、「魔」の入り込む口でもある。
日付のかわる深夜十二時の鐘が鳴る時、西洋の悪魔はあわせ鏡の間から飛び出すし、
旧年が新年に変わる時に、日本の歳神は道を歩いていくのだ。

この物語は、まさしく、多重の世界が重なり合うという世界観のなかで、それらのあわいにある、「眠り」の世界にまつわる物語であり、そこに至る人々は、夢を通じて至る。
人間の世界や精霊の世界が重なり合うという世界観にとって、まことに正統的な手法であり、
しかし、あくまでも精霊界などではなく、界と界の間で展開されるというユニークさもある。
そこに、「花」を持ってきたのも、実にうまいなあ、と思うのだ。
というのは、プロセルピナの神話に代表されるように、植物は、しばしば、死と生、ふたつの世界をつなぐものとされるからだ。

もちろん、植物は、芽生え、花をさかせ、実り、枯れて地に還って、次の年に再び芽生える。
その循環性が重要なわけで、物語の中でも、夢の花は、同じようなサイクルを持っている。
花のサイクルは、花に独自のものであるけれども、物語的には、トロガイやタンダなど、登場する人々の世代にも投影されているように思う。

トロガイの経験した事は、一部は、一の妃が、別の一部はタンダが、さらにまた別の一部は歌い手のユグノが、再び歩んでいく(あるいは歩んできた)道となっている。
また、そいの霊妙なサイクルを、星読み博士シュガらは、彼らなりの神学によって、理解するのも面白い。

こうして、サイクルとはいっても、全く同じわだちをたどるのではなく、
それを理解する道もひととおりでないという多様性は、まさしく、この物語が「アジア的」な部分なのだろうな。
キリスト教的な一元論でもなく、かといって中近東に見られるような二元論でもなく、さりとて小アジアから古代ヨーロッパに広く見られたような三元論でもない、不特定な多元論の世界がこの物語の世界だ。
真実はひとつではなく、真実に至る道もひとつではない。
それを解き明かす方法も、おそらく、登場人物の数だけ、さらには読む人の数だけ、用意されているのかもしれない。


夢の守り人 (新潮文庫 う 18-4)/上橋 菜穂子
2008年1月1日初版