【生命とは何か3】動的平衡 ~流れとしての生命~ | 本好き精神科医の死生学日記 ~ 言葉の力と生きる意味

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「こんな苦しみに耐え、なぜ生きるのか…」必死で生きる人の悲しい眼と向き合うためには、何をどう学べばいいんだろう。言葉にできない悩みに寄りそうためにも、哲学、文学、死生学、仏教、心理学などを学び、自分自身の死生観を育んでいきます。

なぜ生命は尊厳なのか?

なぜ苦しくても、死よりも生を選ぶべきなのか?

 

そういう問いから始まって、

生命とは何か?

について考察しています。

 

生命については、大きく2つの意見があります。

1つは、魂や死後も続く何か、を想定した、生気論。

もう一つは、非物質は認めず、肉体こそが生命であり、死ねば無になるという機械論。

 

現代は、後者の機械論が優勢ですが、

生命科学の進歩とともに「科学的生命観」も、単純な機械論ではなくなりつつあります。

 

  生命は、自己複製するシステム

1953年、ワトソンとクリックによって、DNAの二重らせん構造が解明されました。

生命科学の夜明けを迎え、これ以降の生物学は、生命を「自己複製するシステム」と定義しました。

遺伝子を次世代に受け渡すことができるシステムを持つものを、生命と呼ぶ、と。

この自己複製システムは、生物を「物質」としての生命体として解明することに大きく寄与することになります。

しかし、生命とは本当に物質だけでできているのか。

この問いは残り続けます。
(詳細は前回参照)

 

  生命とは、負のエントロピー

「生命とはなにか」という哲学的な問いに立つと、

過去の智恵を見直すことで、新たな視点がもたらされることは少なくありません。

「温故知新」という言葉もあります。

 

DNAの二重らせん構造の発見に先立つこと10年ほど前、

物理学者のE・シュレディンガーが『生命とは何か』という本を世に送り込みました。

そこで語られたのが、生命を「負のエントロピー」としてとらえる見方でした。

エントロピーとは、物事は自然の流れにまかせておくと、バラバラに拡散する、まとまりを欠く方向に動く、という概念です。

生命が、生命としてのまとまりをもって存在するためには、

エントロピーも逆行するだけのエネルギーと、それを統一するだけのシステムが必要であると考えたのです。

世の中の「物質」は、放っておくと拡散する方向に動いていきます。

机の上や、部屋も、放っておくと散らかっていくように。

この肉体も、物質や細胞の塊が、生命としてのまとまりを保つためには、

「バラバラにならないように」、統一するためのエネルギーがあるはずだ、と考えたのでした。

 

人間関係も、個々が自分の心にまかせて好きなように動いていると、バラバラでまとまりませんが、

自分の心に逆らってでも、まとまるための共通の目的を意識したり、団結しようという意志が必要というのと、

似ているかもしれませんね。

 

 

  生命とは、動的平衡

 

シュレディンガーから、さらに遡ること10年。

ドイツから米国に亡命してきたルドルフ・シェーンハイマーという生化学者がいました。

彼は、栄養素に特殊な(同位体)マーカーをつけて、栄養素は体の細胞の中で常時交換されていること、

細胞や分子は、一生同じ状態が続くのではなく、その材料や構成要素を取り換えながら、

それぞれの機能を維持していることを明らかにしました。

交換とはつまり、全体のまとまりを維持するために、同化と異化、合成と分解を繰り返しているということ。

新しいことを始めるには、古いものは壊して捨てて、新しいものと入れ替える必要があります。

 

つまり、私たちの肉体は、物質として同じ状態が続くのではなく、

物質としては変わりながら、全体の「私」としては変わらずに存在し続けている、というのです。

 

シェーンハイマーはこれを生命の”dynamic state” と呼び、

福岡伸一氏が、「動的平衡」(dynamic equilibrium) と言い換えて、本もたくさん書いておられます。

 

この予言を具現化するかのように、20世紀後半から21世紀にかけての生物学は、生命がつくることよりも、自らを壊すことを一生懸命に行っている様子を次々と明らかにした。

ユビキチン系、プロテアソーム、そしてオートファジーの研究はすべて、シェーンハイマー/シュレディンガーの流れをくむもうひとつのパラダイム=動的平衡の生命観の上に位置づけることができる。

生命とは何か、と問われれば、それは動的平衡である、と答えることができるのである。


第5回 京都大学 ? 稲盛財団合同京都賞シンポジウム2018.7.22 「生命とは何か? それは動的平衡」福岡伸一
  http://kuip.hq.kyoto-u.ac.jp/ja/archives/2018/speakers/shinichi_fukuoka

 

 

 

  生命とは? 私とは何か?

この生命観は、

機械論の進歩発展でありながら、生命は単なる物質の塊だけでは考えられない、というところに、

画期的な特徴があるように思います。

 

インターネットが、物質を基盤としながらも、情報の流れがその本質であるように、

私たちの肉体も、食べたものなどをもとに、細胞が入れ替わり、動き変化しながら、「私」は変わらず続いている。

 

物質ではなく、情報の流れに、本質があるということを示しています。

 

日々のことを考えても

1年前と比べても、知識や経験が増えたり、

付き合いが増えたり減ったり、

成長してる感じもあれば、衰えも感じたり、

変わりながら、変わらない「私」がいつづける。

 

そうなると、「私」は死ねばどうなるのでしょうか?

本当に、死ねば無になるのでしょうか?

 

そんな問いが、より深みを帯びてきます。

 

続けます。